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『いきてるきがする。』《第18部・秋》




第95章 『同じ場所、同じ時間に同じ。』

 少しずつ日が暮れていきます。夕日は足元あたりにやや佇んでいるようにも見えますが慌てた様子はありません。私ですか? 私は元気ですよ。でもその状態がいいのか悪いのか、いつまで続くのかは私には分りません。もうずいぶん長い間ここで同じことを考えています。やはりこれといった結論など出ないように思われます。結局私はこれからもここでずっと同じ事を考えていくより他に無いようですね。ただこの足元の明るさと温かさをどう解釈すればいいのか、それだけが私に委ねられた唯一の『今』のように思われるのです。

 『昔の子』『今の子』は今日も一日の勤めを終え、家路につこうとしています。40歳をとうに超えている2匹の金魚の泳ぐ水槽は今日もピカピカ。パンも弁当も一つも売れ残りませんでした。完売御礼。とてもいい日でした。そうして2人が帰ると店は空になり、やがて日没とともに私を巻き添えにして闇の中へと消えていくわけですが……。

 この子たちはいったいどこから来て、どこに帰っていくのか、実は私はそれを知りません。というよりもまだ決めていないのです。私が決めれば済む事なんですがね。今のところ彼らは毎日、どこからともなく現れて、どこへともなく去っていくことになっています。この曖昧さは不自然ですか? ホントに? 私が思うに、それは曖昧でも不自然でもありません。だって一般の人達だって同じでしょう。毎日電車で出会う人の事など、お互いに何も知らないのですから。彼は一体どこから来て、どこへ帰るのかなんて事をいちいち不思議がったところで仕方がありませんししません。ただ、大勢の人がいろんな場所でいろんなことを考えながらいろんな人と暮らしているんだろうなぁ……、と漠然と思うだけです。『現実』という、さも賢げで自信ありげなモノの99%以上がそれで埋め尽くされているんです。

 ただ、

 ストーリーという残酷な概念に、私の人生は常に縛られ続けているのは事実です。そして矛盾とか誤解というものに抗いきれずずっと苦しんで来ています。これまで通り、ここにいればいいのに、ここにずっといて、同じことをずっと考えていればそれで何の問題もないのに。そうして毎朝現れる『今の子』『昔の子』に、まったく疑いのない笑顔で、おはよう、とそういえばすべて丸く収まるというのに……。

 では、失礼します。そういってまず『今の子』が先に店を出ていきました。夕暮れはもう息絶え絶えです。『今の子』はかつて、自分は両親からのいじめを苦に自殺したのだと言いました。でも私は驚いたりしませんでした。なぜならば、私はその現場にいませんでしたし見てもいませんから。

 ほどなく『昔の子』も、じゃあ、失礼します。と言って出ていきました。わずかの時間差とはいえ外はほとんど真っ暗です。『昔の子』は戦後すぐ、餓死したのだといいました。最後、自分の手から滑り落ちた水粥が残った茶碗を、もう自力では拾えなかったといいます。

 それぞれの時代、残酷な死に方をした子供はきっと他にも大勢いたと思われます。こうしてストーリーが私の立ち位置をぐいぐいと押し狭めてきます。

 わかっています。私はいずれの出来事に対しても無力です。駄々、受け止めて従うしかないのです。しかし、私はそのいずれの出来事に対して、どうしても強い自責の念だけは抱かざるを得ないのです。私がその場にいれば、『今の子』『昔の子』も、西郷隆盛太宰治芥川龍之介も、死なずに済んだかもしれない。

 私はきっと今、『今』という完全平面の上に横たわっているのです。そしてその同一平面上には、宇宙・人類の普遍で無限の『今』があるのです。だったらば、私は何としても、『今の子』、『昔の子』、西郷・太宰・芥川3氏の落命の際にも立ち会えたはずなのです。

               *

 私の父の本当の母は、父が2歳の時に病死したそうです。当然私は会った事も、写真を見たことも、その存在についても聞いたことすらなかったのですが、私が結婚することを決め、妻になる人を連れて帰った夏の日に、突然父が、墓参りに行く、と言い出しました。私は盆に墓に参る事をことさら疑いませんでしたが、車に乗って墓に行く道がいつもと正反対であることにはすぐに気が付きました。やがて細い農道のドン突きにある見知らぬ民家の前に車を止めると、父は中に一声かけた後、その民家の手桶と酌を借り、また見知らぬ山の小道を、私と妻などいないかというほど自分勝手に登っていきました。やがて小さな墓石の前に立って、やっと連れてこれた。と呟くように言いました。「これが、お前のホンマのおばあちゃんの墓やで」墓石は苔生し、小塚の傾斜に合わせてすでに斜めになっていました。やがて崩れてなくなることは見てすぐにわかりました。父は勝手に線香を点け、そのあとに線香立てがない事に気づくと墓石の前に横に置きました。そして手を合わせると、お前らも線香あげてやってくれ。と言いました。

 私は婚約者の手前、やっと思いとどまりましたがその時、父に対する猛烈な嫌悪が吹き出しそうになったのです。

あんたはやっぱり勝手な人だ!

 自分だってよく覚えていない実母の墓前に、さらに何も知らない婚約者と私を連れてきて、あなたの孫ですよ、この度、結婚することになりました。と報告したところでなんになる? 覚えていないんだろ? あなたは悲しんでもいない自分を憐れんで、知りもしない母を慕い、苦しくもない事を苦しんで生きてきた。

 茶碗を落として拾えなかった少年の事を話してあげよう。

 母親の苛烈ないじめを苦に自ら命を絶った少年の事を話してあげよう。

 私がさいなまれているのは、彼らをどうしても救うことなど出来なかったという自責の念です。そしてそれを強いるストーリーです。私はじゃあ、何のために今、彼らに会って彼らと話をしているのでしょう。 幸い、彼はその事実について、私が知っていることを知りません。知らずに働いてくれています。私はなにも質問はしません。彼らも私に何も質問はしません。それはただの不文律なのか信頼なのかはわかりません。

 やれやれ、とっぷりと日が暮れてしまいました。その闇の中で、私はまたそれが自分の『今』だ、なんて言い始めて、まったく別の話をし始めるかもしれませんよ。でも決まっている事が一つだけあります。それは私が、幸せを目指しているという事。どんな材料が悪くても、そこから幸せを目指すことは必定だと思うからです。たとえ目の前にこんにゃくしかなくても、それを使って岩を掘り続けるべきだと思うわけです。もちろん、ストーリーはそれを邪魔します。こんにゃくで?岩を? 掘る?? と、あざけ笑います。

 いいじゃないですか、矛盾や誤解があったって、想像の域を出なくったって。それが間違いなく、あなたの『今』なのだから。