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『いきてるきがする。』《第19部・冬》




 第96章『ウサギとペンギン』

 去年、ウサギの着ぐるみでエライ目にあったから、今年は普通の、極々普通のバイトにした。年末までの短期バイトだから、多少無理してでも稼いでおかないと、彼女と過ごすスイートなクリスマス&ハッピーニューイヤーがまた台無しになってしまう。かもしれない。

 彼女は派手な洋服が好きだから、俺もそれに合わせて、普段着ないような大胆な服を選ぼう。派手な服とは大概、高い。だからそのために、今年は時給が圧倒的に高い、徹夜通しのオフィスの引っ越しのバイトを選んだんだ。

 思えば去年は、本当にひどいクリスマス&ハッピーニューイヤーだったなぁ……。

               *

 JR大森駅前に午前5時半、まだ真っ暗な中に人影がいくつかあって、ガードレールに寄り掛かったり、自販機と無言の会話を交わしたりしている。とうとう俺も、この仲間に入ってしまったか……。

 初めに言っておくけど、俺は強烈なレイシストだ。人種とか国籍とか性別とか、そんなわかりやすいモノばかりじゃない。生まれた都道府県も、声も、顔も、血液型も、背の高さも、髪の色も、直毛かくせっ毛かも。とにかく違いのすべてを、俺は差別する。そしてそのすべてにおいて自分がゼロ点で、それ以外はマイナス。

 だから世界基準とは、

 日本人の男で、京都府出身のAB型で、声は低く、顔はやや大きく、身長は175㎝で、直毛でもくせっ毛でもなく巻き毛であり、ややメンヘラで派手好きな日本人の彼女がいること。これが世界基準であり、それに合わないすべてがマイナス、ということになる。

 とにかく、平等なんて言う胡散臭い概念が世界中に差別をまき散らしていることはもう疑いようもない事実だ。俺はそんな茶番と戦うために1年かけてやっとここまで来た。いや、ここまで落ちた。そしてこんな夢も希望も捨てた、いや、夢からも希望からも捨てられた抜け殻のような連中と一緒に、たぶんこのままワゴン車に乗せられてどこかのオフィスに連れていかれることだろう。いいじゃん、なんて普通なんだ。

 夜が開け始めた窓からベイブリッジが見えた。なに?横浜? そんな方に向かってるの? いろんな形のビルがたくさん並んでいて、まるで陽気な墓場のような街だ。隣のおっさんはぐっすり寝ている。ああ、コイツはこんな景色見やしないだろう、見たってなにも感じないだろう。ぼんやり酒臭い。こんなヤツでもできる仕事が、この世の中にはまだまだたくさんあるんだなぁ。ナメたもんだよ。

 オフィスに着くと、同じようなワゴン車から同じような連中がぞろぞろと降りてきた。いずれ劣らぬ、役立たずの顔。こんな奴らと仕事をするのは誰だっていやだろう。そうみんな思っているに違いない。そして俺はそのうちの一人。いいじゃんいいじゃん、極めて普通じゃん。

 しかし仕事はきつかった。オフィスの機器は全部アホのように重く、後先を考えない、昔やんちゃしてました、みたいな現場主任が、そんなモン一人で運べ。精密機器だから揺らすなよ、壊したら自腹だからな。なんて言ってる。じゃあ壊してやろうか。主任なんだからお前が責任被らないわけねーだろ。

 そして昼。一応1時間の昼休み、飯を食うのもおっくなほど疲れていた俺は黒コッぺを半分だけ食べて、とりあえず寝ることにした。オフィスの床は思ったより優しかった。

 ポツポツと、水滴が落ちる音が聞こえる。それが何の音だか、俺は気付いていたけど、ん?水道の栓かな? なんて間抜けな事を言って笑っている……。

そう、俺は逃げている。本当の俺はしっかり手を握って、大丈夫だよ。大丈夫だよ。なんて囁いている。

「おい、兄さん。起きろ。午後だ。」そういわれて目を開けると本当に午後になっていた。午後も仕事はきつかった。みていると、怠ける奴はだいたい決まっていて、めちゃめちゃ軽そうなパーティションとか、電話とか、コピー用紙の空箱ばかり運んでいる。行きの車の中で寝ていた酒臭いおやじはもちろんこのグループに所属している。同じ労働時間に対する仕事量の差が、レイシストの俺を寧ろ生き生きとさせる。俺の軍手はボロボロなのに、オヤジらの軍手は抜けるように白い。事故が起きればいい。必ず、明日の朝までに、どこかで事故が起きますように。そんなことを呪詛のように反芻しながら、俺は重い機器ばかりを運んだ。本当のレイシストは行動が伴わなければ成就されない。違いを徹底的に見せてやらなければ、すべてがマイナスの野郎どもを本気で失望させることなど到底できない。ビルの外に出るたびに体じゅうからもうもうと湯気が立っていて、まるで印象派絵画のようになった自分が、実はそれほど嫌いじゃない。

 差別って、こういうところに優しく作用するから嫌われるんだろうな。差別の結果が美しいなんてそれこそ茶番だと。そう言いたいんだろ?  

 お前らはこんな湯気、立てたこともないんだろう。空箱ばっかり運びやがって。あの酔いどれオヤジに、仮に俺の仕事をやらせたら、湯気が立つ前に必ず言うだろうな。 差別だ! って。そうだよ、それがどうした? 誰がお前なんか平等に扱うかよ!

 

               *

 頭の中で槇原敬之などをかけながら、僕はウサギの着ぐるみを着て風船を配っていたんです。付き合ってた彼女が結婚することが分かり、もう気持ちがグチャグチャで、自分が人前にいることすら容認できなくなっていたので、僕は仕方がなくこの仕事を選んだんですが、やってみると、もうそこには大嫌いな自分はいない。そればかりかそれまで目も合わせてくれなかったような知らない人まで、ニコニコと手を振ってくれる。ウサギパワー、すげー!

 僕は自分にはウサギになりきる才能があると気づき、もう風船を配りまくったんです。子供達は大喜びで受け取ってくれるし、可愛い女の子が、一緒に写真撮って、なんて。今後絶対、一生ない事だ。

 

「10月いっぱいで退社するって聞いたけど、そのあと、どうするの?」

「結婚する。」

そんな一言って、この世に、ある?

 心が逆戻りした。せっかく自分がいない世界を思う存分に楽しんでいたのに……。

 イルミネーションに彩られたアーケードから流れてくる人ごみの中に、僕は、シュッとしたイケメンと歩いてくる彼女をみつけた。クリスマスカラーを指し色に、オフィスでは見たこともないほどオシャレに着飾った彼女と、僕とは似ても似つかない背の高いマフラーをふんわりと巻いた上品な男が近づいてくる。

 あ、ウサギさんだ! 聞いたこともないような甘えた声で彼女が僕を見て笑っている。ウサギさん、私にも風船ちょうだい。 僕は一瞬たじろいだ。まだ2か月しかたってないんだから、彼女が世界で一番好きな事に何の変りもなかった。しかし僕にはウサギになりきる才能があった。ここぞとばかりに思いつく限りの可愛いポーズを、僕はとった。可愛い!!彼女は大喜びで、イケメンも喜ぶ彼女に満足げだった。僕は風船を一つ取り、紐の先に輪っかを作った。そして彼女の左手をとり、薬指にその輪っかを嵌めた。

 え?ウサギさんにプロポーズされた? どうしよう!

 彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、僕はすぐに手をたたいて、両手を大きく広げて二人を祝福するポーズをとった。イケメンは、ありがとう、と照れくさそうに笑った。

 遠ざかっていく2人の姿を見ながら、僕は自分のいない世界が、どれほど円滑に回っているかを痛いほど知った。自分がすべての基準からずれている。自分がいない事が、すべてにおいて正解。

               *

 つまり自分が生きているという事は、自分以外すべてが不正解でないと辻褄が合わないという事だ。水の落ちる音が、ぽつ……、と止まった。

 自分の膝小僧の上で目を覚ました。午前零時を回ると『午後』という、徹夜仕事は、午後1時から始まった。目が覚めた時、メールの着信があるのに気づいた。

『幸恵、今、亡くなりました』

 重いコピー機の前にはあの酔っ払いのおっさんがいた。仕方なしに、といった感じでやる気はまったく感じられなかったが、飲み足したのか酒の匂いは感じられた。俺はこのおっさんとエレベータまで、何とかコピー機を運んだところで、「客用のエレベータ使うなって言っただろ!」という主任の声がした。コイツ、寝なくて平気なのか? 昔やんちゃやってただけあって無駄にスタミナはあるようだった。

 幸恵が自殺を図ったのは今月の初めだった。もう何度目だろう。気を付けてはいたが防げなかった。ウサギの頭を外した瞬間に、俺の世界は閉じた。そして見知らぬ場所には俺と、幸恵がたった二人だけいた。幸恵は俺と同じだった。まさかこんな子が、ペンギンの中に入っているとは思いもよらなかった。

 幸恵は触れ合うことを極端に嫌った。まなざしが触れ合う事すら嫌がった。

俺にはそれが手に取るように分かった。じゃあ、そうしていればいいのに、幸恵は殊更明るく振舞おうとして常に血を流していた。

 ねえ、今度一緒にディズニーランド行こうよ!! そう言って派手に着飾って、ミッキーとハイタッチして、もう見ていて涙が出るほど、彼女はがんばるのだ。

 よし、じゃあ今度、一緒にイタリアに行こう! フランスにも行こう!

リオのカーニバルも見て、フィンランドにオーロラを見に行こう!

 俺はそれが果てしなく彼女を傷つけていることに気づいていなかった。

いや、気付いていたのかもしれない。彼女は俺と同じなのだから。気付いていながら俺はわざと、自分の気を紛らわすためだけにそんなことを言ったのかもしれない。俺はその時も逃げた。彼女を踏み台にして。

 エレベータからコピー機を下ろそうとしたとき、酔っ払いが戸袋に手を挟まれた。ギャーという耳障りな叫び声と同時に酒の匂いが飛び散った。慌てて飛んできた主任が、「お前、何やってんだよ!」と俺に言った。

 知らねーよ!ボケ!!

 俺はボロボロの軍手を投げ捨てて階段を下りて外に出た。雪が降っていた。辺りはしんとして、遠くに高速道路が見えた。

 さて、東京はどっちなんだろう……。俺はとりあえず高速道路を目指して歩いた。

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