
第109章『まずい選択。』
あなたと離婚する夢を見たよ。
正確には、離婚してしばらくたってからの夢。
で、どういうわけかその日、私はあなたの部屋に泊まらせてもらう事になっているらしく、部屋に招かれているのですよ。そこは結婚する前にあなたが住んでいたような、1DKぐらいの小さなアパートのように見えました。あなたは、
「大きい布団がないから彼のところで借りてくる。」
と言って出ていきました。
どうやらあなたにはもう新しいパートナーがいるようです。
その見知らぬ部屋には、私も見覚えのある、あなたのインド舞踊の衣装などが以前と変わらぬ白い衣装ケースに、これも以前と同じように少しはみ出すように掛かっていて、あぁ、こういうところは変わってないなぁ、なんて、なんだか少しホッとするような思いで眺めていたんですが……、
しばらくすると、色の浅黒い、ややいかつい男が布団をもって現れて、これ、頼まれたんだけど、どうすんの? と私に訊いたんです。
あぁ、すみません。とりあえず、そのへんに置いといてもらえますか?と私は言いました。
あ、そう。と男がやや乱暴に布団を置いた時、これも、あなたの習慣なんだけど……。
畳んだ布団の上に、あなたはよく自分の服を置いてたじゃない。その服が、バサっと床に落ちたんだよ。それは私も見覚えがある細身のジーンズと、あなたのお気に入りのイギーポップのTシャツでした。男は、
「なんだこれ? あ、アイツの服か……。」と言ってあなたの服を掴んで帰っていきました。
アイツ、なんだね、今は……、と思いつつ、
いったい、私はいつ離婚したんだろう……。
どんな理由で離婚したんだろう……。
思い返そうとしたんだけど……。
ところがなんと、私は何も覚えていないんだよ!
信じられる?そればかりか、
じゃあ息子は? 今どこに住んでる? 幾つになった?
それも思い出せない。
これ、私の人生にとってかなり大事な出来事なはずだよね。それなのにまるで何一つ思い出せないなんて!
じゃあ、とのまは? 猫のとのま。とのまは絶対あなたが引き取ってるだろうから、ここで一緒に暮らしているのかもしれない。ひとめ会いたい。明日、私が帰るまでに……。
でも、帰る、って。 私は一体、どこへ帰るんだろう……。
とのちゃーん!とーのちゃん!と、私は以前呼んでいたのと同じ調子で呼んでみました。
すると襖の間からニャニャ、と、とのまが現れたのですよ。それは昔と変わらない、トラックドライバー時代、毎朝4時に私を起こしてくれた時とまったく同じとのまが。
とのちゃん!!私は思わず手を伸ばしたよ。
元気だった?そりゃよかった! また会えたね!よかったね!
そりゃあ嬉しかったよ~。私は、とのまの頭や体をわしゃわしゃと強く撫でまわしたんです。とのまは少し面を食らったような顔をしましたが、なすがままに撫でられてくれました。
しかしほどなく、
あ、いや、違うわ……。これ、夢じゃないわ……。 と。
時計は午前3時のちょっと前ぐらいでしたかね。横を見ると、息子もあなたも、普通にすーすー眠ってて……。
ドッと疲れました……。
でね、
もしもそのタイミングでこの夢が覚めなければ、私はきっとまだその夢の中にいる。
そして少しずつ、自分がなぜ離婚したのか、息子は今どこで何をしてるのか。
翌日、私はここを出て、何処に帰るのか。
何を生業にして暮らしているのか。
自分は今、何歳なのか。
そんな事を徐々に思い出していく事になったでしょうね。
そうして、その世界はどんどんリアルになって、やがて現実へと変わっていたかもしれない。
そして私はずっと、その世界の中で生き続ける。
それは、間違いなく私にとって、まずい選択 になったと思うんだよね。
そして今から始まる今日が、或いはその まずい選択 の一つかもしれないんですよ。
他のどこかで、あぁ、あっち選ばなくてよかった、夢でよかった。覚めてくれてよかった、なんて、
胸を撫で下ろしている自分がいるのかもしれないんですよ。
面白いようで、怖い話でした。
《続く……。》

第108章『黒い花がたくさん咲いている場所へ。』(その2)
それでそれで?と、まるでおとぎ話でも聞くように『昔の子』と『今の子』と、それ以外の子も身を乗り出しました。
いや、まじめに話してるんだよ。まじめに相談してるんだ。
私は苦笑して、話は続きに戻ります。
*
眼下に広がる大阪の街はまるで剣山のようでした。その鋭くとがって見えるいちいちは、ビル、ビル、ビル……。ただ、阿倍野ハルカスがあまりにも群を抜いて高いので、他のビル達はただの灰色の針のように見えるのです。そして道は、そこに落ちて串刺しになった人々の血を流すための残酷な溝のようでした。遠くには大阪湾が見えます。血はきっとそこへ流れ着くのでしょう。
しかし実際のそこには人々の平穏な日常があり、生活があり、家庭があり、秩序があって、そう思えば今度はそのいちいちがサバンナに佇立する白アリの巣のようにも見えてきました。ゾウがぶつかっても壊れないという頑強なアリ塚。これを打ち壊すのはきっと悪魔的な力が必要なんでしょう。そして私は自分がその力を蓄えている、とんでもなく余計な力を蓄えていると感じました。
もういい……。いいから。キャンセル。このアトラクション、キャンセル……。
遊びもそれに伴う想像も、キャンセルしたらすべて終わりのはずです。「はじめからちょっと、時制がずれてますよ。」と『今の子』が理屈に合った事を言ってくれました。
そう、そうなんだよ。時制がメチャクチャなんだよ。十年前って言ったり、前日って言ったり。でもそれに気付く事ってある? 私はない。全然ない。一回もない。目の前の君が10年前の君だったとして、私は気付くかな? 自信がないね……。
これは『昔の子』と『今の子』に対しては少し酷な答えだったかもしれません。彼らは持って生まれた時間を突然断ち切られ放り出された後、ずっとこうした時間と時間の間を渡り歩いて過ごしているようなものなんです。時系列な記憶のつながりが懐かしさや愛おしさを構成しているのなら、彼らにはそれがない。彼らはいつでも、思い出したその時が現実で、初めてのように振舞わなければいけない。それはとても辛い事だと思われるのです。でも勢い余った私はさらに続けます。
時間が繰り返したり戻ったり重なったり混ざったりするのは、誰にでも簡単に想像できる当たり前の事なんだけど、まだ科学的に証明できていないから、知ってるのにわからない。そんな状態なんだね。きっとすべての宗教はそのジレンマから生まれたんじゃないかと思うんだよ。知っているのに、わからないという。だから『永遠』とか『無限』とか、そういう把握しきれない概念を生み出してそのプラットホームに据えようと試みた。それは、生老病死、を時系列にしかとらえられなかった我々にとっては画期的な希望と言えるかもしれないし絶望的な悪夢かもしれない。
君も、君も、そして君らも、おそらくは私も、想像できない事が起きない事はよく知ってるよね。裏を返せば、想像できることは起きるんだよ。我々はそれを、予感、なんて呼ぶ。でも予感じゃない。すべてはすでに知ってる事だから。想像なんて想像するほど創造的じゃない。
*
息子の乗った台がまず傾いた。息子の体は加速しながら、するするとレールの上を滑ってそして、阿倍野ハルカスの屋上から外に向かって勢いよく飛び出した。そして何度も、枯葉のようにクルクルと回転し、向きを変え、そのたびに少し傾いだ日を受けキラリと光り、やがて点の様になり見えなくなった。私の悲鳴を、アトラクションを待つ人たちが声をそろえて笑う。
おっちゃん、ビビり過ぎやって!
続いて妻の乗った台がゆっくりと傾ぎ始める。妻は無表情なまま、息子が落ちた辺りを見つめている。
今、見ただろ? こんなのはアトラクションじゃない。ただの殺人だ!
しかし妻は、「そんな事、あるわけないでしょ。騒ぎすぎだよ、カッコ悪い……。」そう言い残し、落ちる刹那、ちらりと私を見て息子と同じように落ちていった。
オッサンは家族の最期をゆっくりと見届けてから、どん尻で、どうぞ。
係員の男は言った。そして、どう、似合うてる?と言って、T-岡田のユニフォームをバサッと羽織って見せた。
お前、T-岡田が好きなんか?
おお、めっちゃ好きやね!豪快過ぎるでしょ、あのスイング!
T-岡田は、お前の事、嫌いやってさ。
なんでオッサンにそんなことがわかんねん!
誰でもわかるわ。誰がお前みたいなもん、好くか!
男は私の台を勢いよく蹴り上げた。すると台は急激に傾き、私は滑り落ちた。
おお、ゼロ、グラビティー……。時間が弛緩するのがよく分かる。風も悪くない。ただやっぱり少し縛り付けがきつ過ぎる気がした。よく考えたら、どうせ落ちるのになんでこんなにしっかりと縛り付ける必要がある?
保安上の問題?リアルなように見えて、その辺がまだまだ、アトラクションの域を出ないんだなぁ……。残念。
*
みんな、死んだね。そう、もう、死んだ。
だからもういいんだよ……。今日ここにいるのは、偶然でも必然でもない。ただの想像なんだよ。そう言うと、 みんなは黙ってしまいました……。
『昔の子』『今の子』そして『それ以外の子』。それぞれの想像が呼応しているうちはここが現実、ここが今。でもそれが途切れた瞬間に、私たちはまたバラバラになって、見知らぬ者としてどこか別々の場所にある。その時、見えているモノ、聞こえている音、それらに何の整合性もなかったとしても、それが、現実。今……。
どうやったら、抜け出せますか? 誰かが言った。
どうやったらって、どうやったらいいんだろうね。こんなにたくさん意識があるのに、言葉の壁とか、時間の壁が邪魔して想像が呼応し合えないんだとしたら、そんな事をどうやって克服すればいいんだろうね。
やっぱり、生きてちゃ、無理っぽいですね。 まだ誰かが言った。
ん~、無理って言っちゃえば、きっとそうなっちゃうよね。
場所ごと全部、想像すればいいんじゃないの?そして、そこに、いつか集まろうって約束すれば、いいんじゃないの?
『今の子』が言いました。うん、それがいいかもね。出来るならね。
でも最低でもその場所の目印がいるだろう?
『昔の子』が言いました。 うん、確かにいるよね、それは。
そこへフラッと、息子と妻が入ってきました。まるで風呂屋の暖簾をくぐるように涼しげな顔で、何話してんの? と言います。
あぁ、そうだ、顔を見たら思い出した。ちょっと話したい事があったんだ。
《続く……。》

第107章『黒い花がたくさん咲いている場所へ。』(その1)
こんなに早く、力尽きるとは……。それはそれは心地よい敗北感というか……。
なんなんでしょう? これ。
*
大阪・天王寺に聳え立つ『阿倍野ハルカス』にこの度、『ハルカスバンジーVR』というアトラクションが出来たと聞き、早速行ってみました。
天王寺はいつ以来? ずいぶん昔、まだ息子が小学生ぐらいの時、
京セラドームにオリックス・西武戦を見に来て以来ですね。たぶん。
かれこれ、10年近く前です。
あの時もハルカスには行ったんですが一番上までは行かなかった記憶があります。有料だったし……。天王寺動物園に行こうかな、とも思ったんですけど、それよりも通天閣でビリケンさんに挨拶した方が御利益がありそうな。
御利益というか、厄払い……。
昨日のオリックス戦で西武は逆転負け……。後半の不甲斐ないプレーの連続で、私はあの時、確かにイライラとしていたのです。それなのにあろうことか、後ろの席の男が私の椅子の背凭れに足をかけてグラグラと揺すってくるのです。
「あの、ちょっと、やめてもらえます?」と私は丁重にお願いしたつもりでしたが、なんやしらんコイツ。
「は?なんや?おまえ、文句あんのか?」とイキリ顔。
ライオンズのユニフォームを着ている我々家族を関東からのビジターと思うのはまあ、普通の判断でしょう。しかしこの御仁、
関東の人間は関西弁を聞くと等しくビビる、とでも思いこんでいるのでしょうか。わかりませんが、ただ彼にとってはアンラッキーな事は、私は元・関西人。生まれた時から高校を卒業するまでみっちり関西で過ごした私が関西弁になどビビるはずもありません。そればかりかこの御仁、地付きの関西人には簡単にわかる、例えるならアニメのキャラクターがしゃべるような監修済みの関西弁で捲し立ててくるものだからちょっと堪りません。試合も負けてるし普段は温厚な私もこの時ばかりはちょっと上限以上にイラっとしてしまって、
「言うてもわからんのんかコラ! ほな、どうせいちゅうんじゃい!」
と恫喝してしまったんです。すると彼は、スーッと席を横移動してちょっと離れた席に座り直したんです。そしてそこでまた、誰も座っていない前の椅子に足をかけてグラグラし始めたんです。ワシは別に負けてへんで! という空しいアピールに見えてしょうがなかったですよ。
まこと大阪というところは素敵ところで、善良で人懐っこい生粋の大阪人もたくさんいらっしゃるのですが、その孤高の魅力と底知れぬパワーゆえ、それに擬態しようとする弱々しい生き物、いわゆる『大阪人モドキ』もたくさんいるので注意が必要です。
おそらくは『Ⅴシネ』かなんかを見て勝手に抱いた『関西イズム』にすっかり魅了され、自分もいつか関西弁ペラペラになって同窓会の時に、すっかり『カンサイナイズ』されて見違えるほど洒脱でワイルドになった自分を見せつけて、ずっと気になっていたあの子をギャップ萌えさせてみせる!なんて見果てぬ夢を抱えた、他の地方からやってきた己の出自にイマイチ自信の持てない大阪人モドキなのでしょう。
でもそれはどこも同じかもしれない。例えば私のような、関東人モドキも……。
*
え、ここ、乗るんすか? これ、着けるんすか?と、そんな事があった翌日だけに私は、その揺り返しとして殊更に善良な関東人を演じる関東人モドキでした。係員に言われるがままに台に腹ばいになり、そしてVRゴーグルを着けたのです。すると目の前には大阪を一望する景色が広がり、私は窓を大きく外側にはみ出した台の上に、腹ばいで寝そべっているのです。
ここまでは、覚えている……。
あのさぁ、聞いて。『今の子』も『昔の子』も、それ以外の子も。
私の、この記憶は果たして、どこまで、真実か……。
*
係員はその台に私を少しも動けないぐらいキツくぎっちりと縛り付けたのです。VRアトラクションにしてはちょっと、キツイな、痛いな……。そう思ったのです。
しかし、善良な関東人はそんな事で文句を言ってはいけない。これも所謂、『関西ノリ』の一環であろうと。ちょっとやり過ぎちゃう? そんなところも確かに、関西のイケイケノリな魅力の一つである。私は私がまだ関西人だったころの記憶を必死に繋げては思い出しして、それでもやっぱり、ちょっと、キツくないっすかね? とスタッフに言おうとしたその時、
さ、ほな、そろそろ死んでもらいまひょか。
というスタッフのまさかの一言に、私は事態が尋常ではない事を、その時気が付いたのです。辛うじて首を振り返ると、隣の台には私と同じ様に台に縛り付けられた妻と息子の姿があったのです。
え?何?これ。こういうアトラクション? と息子は何の疑いもない様子で笑っています。妻はやや緊張した面持ちではあるものの、やはり同じように台に縛られたまま特に抵抗する様子もありません。火急の事態にはまるで気づいてない様子なのです。
オッサン。昨日ワシ、お前にビビって席をずれたと思ってた? アホやの。オッサン……。
そこにいた係員は昨日、京セラドームで私の椅子を後ろから足を掛けてゆっさゆっさと揺すっていたあの男だったのです。
あのな、オッサン、教えといたるわ。昨日のお前のあの要らん一言で、オッサンとそのしょうもない家族の運命は決まっとったんじゃい!
私はベルトを外そうと必死に藻掻きましたがまるで緩みもしません。額を台に押し付けて、無理矢理体を起こそうとしたのですがビクともしません。そのうち、私のゴーグルが鼻の先までずれてしまったのです。
おいおい、オッサン、なにしてくれてんねん! ゴーグル、ズレてしもたやないか。大村崑か? 小さな巨人です! 言うかボケ!
そして私の目の前には、絶望的な景色が広がりました。それは私がVRゴーグル越しに見た景色と寸分も違わない世界だったのです。
そうや、そうやで、それ、VRゴーグルちゃうねん。
《続く……。》




















































