第97章『後縦靭帯骨化症という愛。(その1)』
3か月ぶりの定期健診で、だいぶ症状が出始めてますね、と言われた。
『後縦靭帯骨化症』って知ってますか?
頸椎の神経の周りの靭帯が『骨化』、つまり骨になってしまう病気で、骨化した靭帯はやがて神経を圧迫して、ひどくなると首から下が麻痺して動かせなくなってしまうという『原因不明の難病』です。
「ほら、交通事故などで頸椎を挫傷して首から下が動かせなくなったりするでしょ。あれに似たような状態になる。まあ似た症状といっても程度は人それぞれなんですが。」
と新しい主治医は残酷なほどわかりやすく私の今の状態を説明してくれました。
うん、確かに。そう言われれば以前よりもノック式ボールペンをカチカチやりにくくなった気がする。細かい文字も書きにくくなった気がする。そうか、そうなんだ、じゃあ私はいつか首から下が動かなくなってしまうんだ……。
いえいえ、まだそう決まったことではないんですが……。
電動車椅子に乗って歩道をヨチヨチと進む年老いた自分の姿をぼんやり想像しながら、じゃあ、パソコンは? と思わず間抜けな質問をしてしまう。
もちろん、そうなってしまったら打てません。とまたわかりやすい答えが返ってきた。 そりゃ、そうだろうね……。
まあこれも一種の老化と考えれば、誰しも生老病死は免れぬわけだから諦めて他の事を考えるのがいいのだろうが、だがしかし、つまりそうなると私がコツコツと4年にわたり構築してきたこの、生ブログ風小説『いきてるきがする。』のデータをの更新が出来なくなってしまうという事になる。つまりこの物語は停止する。私の体同様に完全に麻痺してしまう。それは私にとっては一大事だが、そんな事とは気付く様子もない主治医は、「だから出来るだけ早い段階での手術するのがいいと思うんですが、はどうですか?」と言った。
「ん~……。でもね先生。前の先生にも言われたんですけど、その手術をやっちゃうと首が動かせなくなるんですよね。」と私が言うと新しい主治医は、そうです。とまた端的な答えをくれた。
「首が動かなくなると、今のドライバーの仕事はもうできなくなるってことですよね。後方確認とか、出来なくなるってことですよね?」
それに対しても主治医は、「そうでしょうね、おそらく。」とまた端的な答えをくれた。
「じゃあ、今すぐにはちょっと無理かなぁ……、」という私の囁きに対し新しい主治医は「じゃあ今度は3か月後の2月でいいと思います。まあ進行性の病気ではないのでね、何かあったらすぐ来てください。」とまるで値引き交渉に失敗した時のチェンマイの朝市の果物屋の主人のように、あっさりとこの話を引っ込めた。
*
病院を出ると空気は冷たく澄んでいたが、木立の日差しは斑に暖かかった。そのどっちつかずなバランスがまるで自分の『今』を表しているように思われた。
あぁ……、今の自分には、面白い事と辛い事が同一に進行している。
このお互いに無関心で決してぶつかり合うことない2つの側面は、時間になったり空間になったりを繰り返し、やったろか? やめたろか? と私の『今』を掴み、捩じり上げていく。そして新しい主治医の「出来るだけ早い段階での手術がいいと思うんですが、どうですか?」という言葉そのままに、私を救おうとしたり、奈落の底に突き落とそうとしたりしている。
しかしそれは残酷なようでいて実は、とても尊い愛でもある。
*
いいかい、お前はバカだけど根はいい子だ、要するにリハーサル通りの態度で望めよ、と母の冷たい手が散髪したての私のザンギリ頭のポンポンと叩いた。私は兄弟たちと一緒に父の運転する白いマークⅡに乗り、隣町の祖母の家までお正月の餅を丸めに行く。タバコと消臭剤の匂いが入り混じった地獄のような車内でも、私は今と同じに、きっと楽しい事があるぞ、という気持ちと、また一人ハブられて嫌な思いをする、という気持ちをぐるぐると捩り合わせていた。私はずっと不思議に思っていた。なぜ私よりも年下の従妹が、当たり前のように親戚の輪に入り込んでいるのに、私は未だにその輪に入れずにいるのだろう。そんな私のみっともない姿が余程優越感を刺激するらしく、従妹たちは、私の一挙一動を間抜けなモノとして茶化しては笑いの種にし、ますますその『親戚』という、私から見れば氷の結束を強固していく様だった。
やがて粉が敷き詰められた長い板の、一番遠い端に私は従妹に混じって座らされた。これから始まる悲劇は容易に想像できた。初めからわかっていた事は、おばあちゃんが投げる餅など、私のところには届かないということ。
京都のお正月の餅は丸餅。
おじいちゃんによって突かれた餅はおばあちゃんによって手際よく適当な大きさにちぎられ、そのまま孫たちの並ぶ、粉を敷き詰められた板の上にポンポンとリズムよく放り投げられる。
年かさの4人の孫たちが素早くそれをつかんで左手をお皿のように、右手を伏せたお椀のようにして、両掌でくるくると餅を丸めていく。私もその時はまだ、自分も餅を丸めたいというワクワクした気持ちと、誰も私に餅を中継してくれないかもしれないという不安な気持ちを交錯させていた。
約40分。すべての作業は終わったがやはり案の定、私のところへは一つの餅も飛んでこなかった。
それはわかっていた。そして私はこの事により、これから様々な嫌な事を我慢しなければならなくなった。年が明けると、我が家はまたここに年始の挨拶に来るに決まっている。まあ、よく来たねぇ、あけましておめでとう、なんて一見にこやかに迎えられるものの、お前は従妹の中で、一人だけ一つの餅も丸めていないのに、いざ年が明けると、さも餅を丸めた従妹たちと同等の孫のような顔をして再びこの家に現れ、まんまとお年玉をせしめ、さも旨そうにこの、誰が丸めてくれたかもしれない他人の餅を、ド厚かましく貪り食うつもりだろう。
という声がもうすでに聞こえていた。
その日の夜は従妹たちとカードゲームをやった。私はやはり、おそらくは『私だから』という理由で一人前扱いはされず、おばあちゃんとペアを組み参戦した。
おばあちゃんは優しかったが、どう考えても私の存在は不要だった。
おばあちゃんは、勝ったり負けたりしたが、カードゲームが進むにつれ、私の、私は不要という気持ちはどんどんと強くなり、とうとう耐えきれなり、どうしても家に帰ると言うと、おばあちゃんはびっくりした様子で、どうして?どうして?と何度も訊いてきた。その顔があまりに心配そうで、ちょっと申し訳ない気もしたが、私はもう、死んでしまいそうなほど、そこにいるのが嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌でたまらなかったので、両親と一緒にその日は泊まらずに家に帰った。誰もいない家はとても寒くて、明かりをつけると居間が蛍光灯にあぶり出されてただ青白く光ったのを覚えている。この家でも自分は歓迎されていないことが改めてよく分かった。酔っぱらった父が、
「まったく、どうしてお前はいつも一人だけ違う事をするんだ。なぜ他の子たちと仲良くできないんだ。親戚に行ってまで、親に恥をかかせて、何が楽しいんだ。」と、力弱く私をののしった。
*
私には今も、自宅の玄関の端に、人一人がようやくくくれるぐらいの穴がはっきり見えるんです。それはこの物語の序章で私が、あまりの自分の不甲斐なさに絶望して、もうすべてから逃げようとして、踏切に飛び込む代わりに飛び込んだ、その穴です。そしてその穴の中の様子については、これも序章で言ってますが、こうして皆様とのコミュニケーションが続く限り、今後も一切説明はしません。だからそういう意味でも、私のこの『後縦靭帯骨化症』は、皆様とのコミュニケーションを断ち切ろうとする、そして私をある種の抑圧から解放してやろうとしている、残酷な天使であり、優しい悪魔でもあるのです。
とにかく私はこうして常に目の前に重々しく垂れ下がる様々な記憶の死骸を掻き分けてながら結局また、あの二人のいるこの店に来たのです。
2人は今日も店を清浄に保ってくれています。麗らかな冬の日に照らされて、50歳をとうに超えたであろう金魚たちも頗る元気に泳いでいます。妻の焼いたパンの匂いも香しい。こんな現実があることを、おそらく私以外の誰も知りません。
なんか売れた? と訊くと今の子が、最近は小物がよく売れます。と答えてくれました。
そうですか。それはよかった……。
しかしいつか本当に私の首から下が動かなくなった時、この店はこの私だけの世界から、あの狭い穴をくぐって現実の世界にお引っ越しをしなければなりません。そうしなければ、私に生きていく術はありません。そもそも全体、あの穴をくぐった時から、私は私が生きているのか死んでいるのかなんて判然としていません。私はどうやってあの2人をこの現実の世界に呼び寄せるつもりなんでしょうか。あの2人はどういう形でこの穴を抜けてやってくるのかと、私はそれを今真剣に考えているのです。
戦時中に餓死した『昔の子』と、親からの苛烈な虐待に自殺に追い込まれた『今の子』。
私はそろそろこの2人と自分の関係を、つまり自分にとっての、この2人の正体を見極めなければならないようです。私は記憶の中のいったいどこに、この2人はいるのでしょうか。私の知っている誰に、この2人は似ているのでしょうか。まずはそこから考えてみたのです。
『昔の子』は戦前に生まれたのだから、現実には私よりもずっと年上だと考えられます。ひょっとして私に何の関わり合いもない人なのかもしれませんが、そんな人の事をきっと、私が想像できません。私が想像することができるのは実際に接した人に限られるのです。それはずっと昔から、あらゆる美術・文学・音楽を通じて人間そのものが証明し尽くした、人間の性能の上限なのです。いったい『昔の子』とは、私の中の誰の事なのでしょう?
私には戦争で死んだ叔父がいるそうです。享年、19歳。少年というには微妙な年齢ですよね。とつとつと戦争について語る祖父の口からも、ちょこちょこと出てくるその人の名前はもう忘れてしまったか、もともと知らないか。
続く。
第96章『ウサギとペンギン』
去年はウサギの着ぐるみでエライ目にあったから、今年は普通のバイトにした。でもなるべくお金のいいやつ。年末までの短期バイトだから、多少無理してでも稼がないと、彼女と過ごすスイートなクリスマス&ハッピーニューイヤーが今年もまた台無しになってしまう。
彼女は派手な洋服が好きだから俺もそれに合わせて、普段着ないような派手な服を選ぼう。しかし派手な服は大概、高い。だからそのために、時給がやけに高い、徹夜通しのオフィスの引っ越しのバイトを選んだんだ。
思えば去年は、本当にひどいクリスマス&ハッピーニューイヤーだったなぁ……。
*
JR大森駅前に午前5時半、まだ真っ暗な路上には人影がいくつかあって、パンを齧ったり、煙草を吹かしたりしたりしていた。とうとう俺も、この仲間に入ってしまったか……。
初めに言っておくけど、俺は強烈なレイシストだ。人種とか国籍とか性別とか、そんなわかりやすいモノばかりじゃない。生まれた都道府県も、声も、顔も、血液型も、背の高さも、髪の色も、直毛かくせっ毛かも。とにかくすべての違いを、俺は差別する。そしてそのすべてにおいて自分がゼロ点で、それ以外はマイナス。
だから世界基準とは、
日本人の男で、京都府出身のAB型で、声はやや低く、顔はやや大きく、身長は175㎝で、髪は巻き毛で、メンヘラで派手好きな日本人の彼女がいること。これが世界基準であり、それ以外はすべてがマイナス、ということになる。
とにかく、平等なんて言う胡散臭い概念が世界中に差別をまき散らしていることはもう疑いようもない事実だ。俺はそんな茶番と戦うために1年かけてやっとここまで来た。いや、ここまで落ちた。そしてこんな、夢も希望も捨てた、いや、夢からも希望からも捨てられた抜け殻のような連中と一緒に、たぶんこのままワゴン車に乗せられてどこかのオフィスに連れていかれることだろう。いいじゃん、なんて普通なんだ。
夜が開け始めた窓からベイブリッジが見えた。なに?横浜? そんな方に向かってるの? いろんな形のビルがたくさん並んでいて、まるで陽気な墓場のような街だ。隣のおっさんはぐっすり寝ている。ああ、コイツはこんな景色見やしないだろう、見たってなにも感じないだろう。ぼんやり酒臭い。こんなヤツでもできる仕事が、この世の中にはまだまだたくさんあるんだなぁ。ナメたもんだよ。
オフィスに着くと、同じようなワゴン車から同じような連中がぞろぞろと降りてきた。いずれ劣らぬ、役立たずの顔。こんな奴らと仕事をするのは誰だって嫌だろう。きっとみんなそう思っているに違いない。そして俺もそのうちの一人。いいじゃんいいじゃん、極めて普通じゃん。
仕事はきつかった。オフィスの機器は全部アホのように重く、昔やんちゃしてました、みたいないかつい現場主任が、精密機器だから揺らすなよ、壊したら自腹だからな。なんて言ってる。じゃあ壊してやろうか。お前が主任なんだから責任被らないわけねーだろ。
そして昼。一応1時間の昼休み。飯を食うのも億劫なほど疲れていた俺は、黒コッぺを半分だけ食べてとりあえず寝ることにした。オフィスの床は思ったより優しかった。
ポツポツと水滴が落ちる音が聞こえる。それが何の音だか、俺は気付いていながら、ん? 何? 水道の、栓かな? なんて間抜けな事を言って笑っている……。
俺は逃げている。本当の俺はしっかり手を握って、大丈夫だよ。大丈夫だよ。なんて囁いている。
「おい、起きろ。午後だ。」そういわれて目を開けると本当に午後になっていた。午後も仕事はきつかった。みていると、怠ける奴はだいたい決まっていて、軽そうなパーティションとか、電話機とか、コピー用紙の空箱ばかり運んでいる。行きの車の中で寝ていた酒臭いおっさんはもちろんこのグループに所属している。同じ労働時間に対する仕事量の差が、レイシストの俺を寧ろ生き生きとさせる。俺の軍手はボロボロなのに、オヤジらの軍手は抜けるように白い。事故が起きればいい。必ず、明日の朝までに、どこかでデカい事故が起きますように。そんなことを呪詛のように反芻しながら、俺は敢えて重い機器ばかりを運んだ。本当のレイシストは行動が伴わなければ本当には成就されない。違いを徹底的に見せてやらなければ、すべてがマイナスの野郎どもを本気で失望させることなどできない。ビルの外に出るたびに俺の体じゅうからもうもうと湯気が立っていて、まるで印象派絵画のようになった自分が、実はそれほど嫌いじゃない。
差別って、こういうところに優しく作用したりするから嫌われるんだろうな。差別の結果が美しいなんてそれこそ茶番だと。役立たずどもはそう言いたいんだろ?
頑張ったことがないお前らはこんな湯気、立てたこともないんだろう。空箱ばっかり運びやがって。あの酔いどれオヤジに、仮に俺の仕事をやらせたら、湯気が立つ前に必ず言うだろうな。 差別だ! って。そうだよ、それがどうした? 誰がお前なんか平等に扱うかよ!
*
頭の中で槇原敬之などをかけながら、僕はウサギの着ぐるみを着て風船を配っていたんです。付き合ってた彼女が結婚することが分かり、もう気持ちがグチャグチャで、自分が人前にいることすら容認できなくなっていたので、僕は仕方がなくこの仕事を選んだんですが、やってみると、そこにはもう大嫌いな自分はいない。そればかりか知らない人までニコニコと手を振ってくれる。ウサギパワー、すげー!
僕は自分にはウサギになりきる才能があると気づき、もう風船を嬉々として配りまくったんです。子供達は大喜びで受け取ってくれるし、可愛い女の子が、一緒に写真撮って、なんて。
今後絶対、一生ない事だ。
*
「10月いっぱいで退社するって聞いたけど、そのあと、どうするの?」
「結婚する。」
そんな言葉って、この世に、ある?
急に心が逆戻りした。せっかく自分がいない世界を思う存分に楽しんでいたのに……。
クリスマスのイルミネーションに彩られたアーケードから流れてくる人ごみの中に、僕は、シュッとしたイケメンと歩いてくる彼女をみつけた。クリスマスカラーを指し色に、オフィスでは見たこともないほどオシャレに着飾った彼女と、僕とは似ても似つかない背の高いマフラーをふんわりと巻いた上品な男が近づいてくる。
あ、ウサギさんだ! 聞いたこともないような甘えた声で彼女が僕を見て笑っている。ウサギさん、私にも風船ちょうだい。 僕は一瞬たじろいだ。まだ2か月しかたってないんだから、彼女が世界で一番好きな事に何の変りもなかった。しかし僕にはウサギになりきる才能があった。ここぞとばかりに思いつく限りの可愛いポーズを、僕はとった。可愛い!!彼女は大喜びで、イケメンも喜ぶ彼女に満足げだった。僕は風船を一つ取り、紐の先に輪っかを作った。そして彼女の左手をとり、薬指にその輪っかを嵌めた。
え?ウサギさんにプロポーズされた? どうしよう!
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、僕はすぐに手をたたいて、両手を大きく広げて二人を祝福するポーズをとった。イケメンは、ありがとう、と照れくさそうに笑った。
遠ざかっていく2人の姿を見ながら、僕は自分のいない世界が、どれほど円滑に回っているかを痛いほど知った。自分がすべての基準からずれている。自分がいない事が、すべてにおいて正解。
*
つまりだ。俺が今こうして生きているという事は、俺以外すべてが不正解でないと辻褄が合わないという事だ。水の落ちる音が、ぽつ……、と止まった。
午前零時を回ると『午後』という徹夜仕事は、午後1時から始まった。自分の膝小僧の上で目を覚ました時、メールの着信に気づいた。彼女のお母さんからだった。
『幸恵、今、亡くなりました』
とびきり重いコピー機の前にはなぜかあの酔っ払いのおっさんがいた。仕方なしに、といった感じでやる気はまったく感じられなかったが、飲み足したのか酒の匂いは感じられた。俺はこのおっさんとエレベータまで、何とかコピー機を運んだところで、「客用のエレベータ使うなって言っただろ!」という主任の声がした。コイツ、寝なくて平気なのか? 昔やんちゃやってただけあってスタミナだけはあるようだった。
幸恵が自殺を図ったのは今月の初めだった。もう何度目だろう。気を付けてはいたが今回も防げなかった。ウサギの頭を外した瞬間に俺の世界は完全に閉じた。そして真っ暗で見知らぬ世界には俺と、幸恵だけがいた。幸恵と俺は同じだった。まさかこんな子が、ペンギンの中に入っているとは思いもよらなかった。
幸恵は触れ合うことを極端に嫌った。まなざしが触れ合う事すら嫌がった。俺にはその訳が手に取るように分かった。じゃあ、そのままそうしていればいいのに。他人なんかどのみち、自分勝手に期待して、そして自分勝手に幻滅して去っていくだけのモノなのだから。でも幸恵は殊更明るく振舞おうとした。そして常に血を流していた。
ねえ、今度一緒にディズニーランド行こうよ!! そう言って派手に着飾って、ミッキーとハイタッチして、ピースして写真を撮って。もう見ていて涙が出るほど、彼女は必死に頑張るのだ。
よし、じゃあ今度、一緒にイタリアのフィレンツェに行こう! フランスシャンゼリゼ通りにも行こう!リオのカーニバルも見て、フィンランドにオーロラを見に行こう!
彼女は喜んでいた。それが果てしなく彼女を傷つけている事に、俺は俺は気づいていなかった。
いや、きっと気付いていた。彼女は俺と同じなのだから。気付いていながら俺はわざと、自分を慰めるためだけにそんなことを言ったのかもしれない。俺はその時も逃げた。彼女を踏み台にして。
エレベータからコピー機を下ろそうとしたとき、酔っ払いのおっさんが戸袋に手を挟まれた。ギャーという耳障りな叫び声と同時に酒の匂いが飛び散った。慌てて飛んできた主任が俺に、「お前、何やってんだよ!」と言った。
知らねーよ!ボケ!!
俺はボロボロの軍手を投げ捨てて階段を下りて外に出た。雪が降っていた。真っ黒な空から白い雪がさも意味ありげに落ちては消えた。遠くに高速道路が見えた。
さて、東京はどっちなんだろう……。俺はとりあえず高速道路を目指して歩いた。