- 第114章『怪談・好都合な凹凸(その1)』
- 第115章『怪談・好都合な凹凸(その2)』

第114章『怪談・好都合な凸凹。(その1)』
私が幽霊の類を全然怖くはないのは、それを少し信じているという面があるから。
もう少し詳しく例えるならばそれは四季それぞれにある、春は桜や菜の花、夏は花火や蛍、秋は松茸や楓、冬は門松やクリスマスツリーのような、あって当然な思い込みを、まるでたまたまみつけた汚らしい人形を拾っては、綺麗に奉ってお姫様の様に下にも置かぬ扱いをしておいて季節が過ぎると無下に捨てる。そんな事を繰り返して、なにかに祟られやしないか……。もしも祟られたらどうしよう……。祟られたくない……。と、そこまでも楽しもうとする貪欲な自分に対する猜疑心があるから。
そしてこれはホントに可笑しな事なんですが、
幽霊を信じてない人の方が余計に怖がる傾向が、これは本当にあるんです。面白い矛盾ですよね。信じてないのに怖いって。
もちろん、正体のわからないモノが怖いというのはその通りですよ。幽霊に対する恐怖はどこから来るのかというととどのつまり、絶対にあるはずもないモノが万に一つも自分の目に見えてしまったら、耳に聞こえてしまったらどうしよう、という自分に対する猜疑心から来るのです。それが貪欲であればあるほど幽霊はより色鮮やかに面白くなる。自信満々の人が常に何かに身構えている様にみえるのは、自分に対する猜疑心を否定しようとして強がっているからじゃないでしょうか。確信を持つという事は同時に、自分に対する猜疑心を否定する事だともいえますからね。
ただその自分に対する猜疑心というヤツがなかなかなまなか、意のままではありません。それはそばにはいないのです。いや、いることはいるのですが、自由闊達な感情の柵の外側にある、どんよりとした木下闇かどこか目立たない場所で、普段はじっと寝たフリをしているのです。そしてとつぜん、むっくりと起き上がったかと思うと、悪徳羊飼いさながらに、西洋渡来・東洋渡来の様々な伝染病に冒された野良羊のような感情の群れを率いては、それまでそこで大人しく草を食んでいた生まれながら感情と、こっそり交配させてどさくさに掻っ攫っていこうとするのです。これは大変非道な事ですが、生まれながら感情にも、その寝ぼけた羊飼いにも抵抗する様子はありません。むしろ受け入れているようでもあるのです。なぜなら、生まれながら感情は、自分には基より何の魅力も才能も可能性もない事をよく知っているからです。そしてその寝ぼけた羊飼いも「あぁ、羊の数が増えたなら増えたで、まあそれはそれでよかったよかった。」とまた眠ってしまいます。
この寝ぼけた羊飼いの事を仮に『赤ちゃん』としましょうか。そうして赤ちゃんがスヤスヤと眠っている間にも、厄介な病気をうつされた生まれながらの感情は悪寒と熱に苦しみながらもその『信仰』という喉のムズムズをそのまま放置してしまうのです。
ここで、『信仰』と言う言葉が出てきましたが、ここでいう『信仰』とは一般に言われているような、大袈裟なばかりで根拠に乏しい非科学的なエピソードを自信満々におっぴろげた絵画や物語を盲信者に描かせたり書かせたりして悦に入っている凶悪凡人に対する隷属的な憧憬の事を言うのではなく、自分の身を守ろうとする、それは本能に基づく純粋で神聖な、自分の在りように対しての自浄行為と言えます。
人は変わらなければいけない。人は知らなければいけない。そして、人は気付かなければいけない。まあなんという、目を覆いたくなるほどの悪魔的で醜い執着なんでしょうか。しかし赤ちゃんはそれが生きる上で免れ得ない絶対条件であることを、いずれ様々な形で知らされる事になります。もはや自分で自分を救う術はない、そう気付いた赤ちゃんはまず自分をあえて小さく、みすぼらしく、無垢で無知で無力にくくる事で、本当はない不思議があってもいいような、本当はない矛盾があってもいいような、そんな条件を作り出すべく前を向こうとするのです。体はヨチヨチと立ち上がり、下の前歯をちょっと生やし。
その美しさたるや疑う余地はなく、まずはすべてからその『根拠』を奪い取ります。まずはそれで十分です。そうすることで、赤ちゃんはギリギリのところで魂の腐敗を防ごうとしているのではないかと、私は推測しています。だた、前というのは前として常に厳然としてあるわけはないので、泥水を飲んで育った赤ちゃんは泥臭く、酒飲んで育った赤ちゃんは酒臭く成長するのです。
赤ちゃんはなぜそんな絶望的な事をするのでしょうか? 実はそれが一番単純な話で、
赤ちゃんだってずっと赤ちゃんのままでいるのは退屈なんですよ。本当にただそれだけの理由。自分には一切の価値も責任もない事を、赤ちゃんは生まれた時から分かってるんですから。自分がナニサマであれ、その価値の一切は他から賦与してもらったモノだという事も、生まれる前から知っているんですから。
だから、こっかとか、じんしゅとか、しゅーきょーとか。そんなの全部後付けなんですよ。
じゃあ、仮にこの矛盾を、画期的、且、合理的に解消する方法はないのかしら?と考えると、まあ単純に幽霊がまったく頭から消えてなくなればいいんですが、脳の構造上それは無理っぽい。では見えてもそれを逐一証明してくれる呆れるほど明解で単純な理屈が毎度毎度都合よく頭に浮かべばいいんですが、それもなかなか無理っぽい……。
つまり、あっても無理、という能力の限界を察したモノ、つまり幽霊を信じない人にとっての幽霊とは、はっきり目の前にあるモノを正しく証明しようとする検証に基づく的を射た実験の結果ではなく、そこにそれがあってもらっては都合が悪い、立場がないという、かつて日本の道路事情に合わないことを重々承知しながらシレっと左ハンドルの車を売りつけた欧米の自動車メーカーさながらな、状況を完全に無視して一つの雛型に無理矢理に嵌め込んだ事によって表面に生じた不自然な凸凹の事なのです。さすがにそれをまったくないとは言えない彼らは挙ってその凸凹を、実に滑らかで流麗なラインだと褒めちぎります。褒めさえすれば、あってもいいのです。価値さえあれば、あって当然なのです。そのすべては神の意思に基づく、なるべくしてそうなったとのだ彼らは誇らしげに笑うのです。そして最終的に彼らは口を揃えて、『ハンドルが左側にはついているのではない。助手席が右側についているだけだ。』というのですよ。まあ、こんなジョークにもならないようなモノが偽らざる現実の姿なのです。
私が幽霊を見たのはつい昨日です。昨日の夜。(続く)