『いきてるきがする。』《第26部・秋》




 週末。晴天の午前。妻は買い物に出かけて息子は塾。私は一人、リヴィングで自分で入れたコーヒーのカップと部屋にはただその2つきり。珍しくパソコンも開いてない。陽だまりがこぼれたミルクの様にテーブルの上にベチャーっと広がっている。ぽたぽたとこぼれたひだまりは床の上。この時の私は別に、元ミュージシャンでもなければ、元料理人でもなく、ドライバーでもないし、誰かの旦那でもなければ父親でもない。

 延いてはここは埼玉でもなく京都でもない。私は男でも女でもない。そのいずれを示す特徴も今はまったく見当たらない。

 そうして私はだんだん、素の自分になっていく。
 
 素の自分、といってもそこには何もないというわけじゃない。大概のものは、大概ある。
  
 開け放した窓から金木犀の香りとお囃子の音が同時に、鼻と耳に止まった。


                    *


 秋祭りののぼりが神社の境内のあちこちに翻っているのが見える。それ以外には、店内に並ぶ品物を品良く飾り立ててくれている、ウっとして胸に迫るほど濃厚な日向がナメクジの速さでジリジリと部屋に侵入してくるがわかる。それ以外は特にはなにもない。食事が喉を通らない。やわらかいものは、私を追い詰める。こんなものさえ、お前は食えないのか?と嗤う。風は、試すように冷たい……。

 お茶、淹れますけど、飲みますか?と『昔の子』に言われるまで、僕はこれとはまったく違う事を考えていた。それももう、何年? あるいは、十何年? それとも、何十年?

前の事? 後の事?

 この頃、夕餉が終わるのを見計らって猫のとのまが足元ににじり寄ってきては私に、「食後の庭を見せろ!」と要求して鳴く。私はしたがって、一階の庭に面した部屋に降り、窓を少しだけ開けてやる。網戸だけは閉めたまま。また逃げ出したら困るからね。とのまは穢れのない横顔で薄暗い庭をじーっと見ている。

 横顔が綺麗な猫だなぁ……。か、猫の横顔とは綺麗だなぁ……のどちらかを選ぶ。選ぶ基準はその時節。それは死んだ両親の事を思い出す時と同じで、

心配性の両親だなぁ……。か、両親とは心配性だなぁ……のどちらかを、その時節、その刹那々々で選ぶんです。

 斯様に、僕はここ数年でずいぶんいろいろ諦めるのが上手くなった様です。或いは、死にゆくという意識がより強く具体的になったぶん、優しいヒントは毎日の生活のそこらじゅうに鏤められるようになっていったのかもしれませんね。

さ、いい事がなくても、それがいい事……。

そして庭木の揺れる音を、神社のお囃子を、そして去年の夏、庭の端っこに埋めた、車にはねられて死んだ鳩の墓石のエピタフを、夕暮れの中にぼんやりと認めてはまた、やぶさかではないため息をつく……。

 僕は、なにもかももう、あと少しなのかもしれん……。

 そう思う事にすら悲しさも悔しさも感じなくなっている。僕の考えは湧水の様に頭のてっぺんから湧きあがり、下へ下へと滞りなく流れていく。その流れが今の僕を形作っている事は間違いない。僕もそれを1ミリも疑ってない。ただそこに僕の意志はない。いつもこうだ。まったく変わらない。考えても考えても同じだ。そしていつも思う。 私はいったい、いくつなんだ? 100歳を超えていると言われても、別に驚かないさ。もうとっくに死んでいる、なんて言われても、それだって大して驚かないつもりだよ。

 ずっとうちの店で働いてくれている『昔の子』と『今の子』は僕には特別な他人だ。ありえない関係だ。これは僕が勝手に思う事だけど、1000万分の一を下回るような確率ならもう、生きてても死んでても両方確実ではない。いまにも消えてしまいそうな微細な確率の中で僕は今、温かくて確かな日を浴びて、風とお囃子を聞きながら、この2人と一緒に湯呑を両手に包んで秋祭りののぼりが翻る境内を眺めている。だから『昔の子』が淹れてくれるお茶を飲む事は、現実と言うにはあまりにもかけ離れているのです。

 窓から身を乗り出していた『今の子』が、来ましたよ!! と言いました。町内を一周した山車が神社に戻ってきたようです。お囃子の音もだんだん大きくなり、祭り装束の子供や大人も続々と戻ってきた。みんななぜかホッとして見える。そりゃそうだ。僅かな確立の中から無事に帰ってきたんだからね。

 山車の舞台でお囃子に合わせて狐の面を付けて踊っている少年は、かつて息子の同級生だった子です。僕は目の前の景色をまるで回想するように思い出している。

 さ、何が知りたいですか? この子の事?それとも、

 友達の引っ越しを手伝った際に、引き出しの奥から出てきた、本当に小さな小さな、お櫃と、茶碗と、お箸と、しゃもじの、木製のセットの事か?

 それとも、

無下に捨てられて30年後、偶然を装って200㎞も離れた場所に再び現れた白茶トラの仔猫の事か?

 いずれにしても、確率が低すぎて、肉眼で確認するのはほとんど不可能です。でも、ちゃんと調べないとね。僕は君に細かいウソをついてしまう事になるからね。いずれにしても、ちょっと待ってね。考える時間を、少しもらうよ。

                  《続く。》

 


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