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『いきてるきがする。』《第17部・夏》




94章『Seven Bridges

 空を覆った雨粒の一粒一粒が太陽の光を7色に分けた瞬間、それまで恐怖でしかなかった光は希望へと変わり、卑屈に逃げ回っているだけだった俺の体からはいろんな欲望が噴き出した。五感は解き放たれ、まるで他人事の様に好き勝手に独り歩きを始めた。お前らなんか知るか!俺がいい、俺が一番好きだ!俺は今こそ自分を好きになる、好きになってみせる!そう思っている、ただそれだけかもしれない。

 それが神様の仕業だなんて噴飯物だ。

 風鈴がチリリンと鳴り、辺りを一層静かにするように、僕はエアコンのモーター音に一層の暑気を募らせている。世界の森を一瞬で枯らしてしまいそうな強烈な日差しの中、僕はふと、目の前のこの全風景から夏をすっかり漉し取ってしまったらどうだろう、そして今一度そこに、わがままな何か別のモノを当て嵌めてしまったらどうだろう、と考えた。しかしそのあまりに雑な閃きにかえって困惑としている、ただそれだけなのかもしれない。

 それが神様の悪戯だなんて噴飯物だ。

 まるでゴミ箱のような世の中さ。役に立つものなど何もありゃしない。あるのはただかつてそこで生きたモノ達が一様に持て余し、中途半端に放り出してきた生活の残骸だけだ。それを文化だの文明だのと飾り立てて何になる? もし私に出来る事があるとすればそれはただ、その残骸に無駄な痕跡を残さないようにして誰かにそっとその席を譲る事だけだ。『昔の子』『今の子』はここにはいない。きっと誰かに席を譲ったのだろう。そうしてお互いの現実の間を行ったり来たり、寄ったり離れたりしながら徐々に元いた場所を見失っていく。私は長い夢の川を渡り切ったような疲労感と伴にこの店にいる。そして好きなように回想してはまた眠りに落ちようとしている、ただそれだけなのかもしれない。

 それが神様の慈悲だなんて噴飯物だ。

 そしてやっと今、おそらくは数十年間に及ぶであろうこの経験を通じて一つの結論、つまり居場所にたどり着いたわけだ。それは自分がこれまでいかにわがままな記憶ばかりを選び続けてきたか、何かに迷うたび、私は許され、依怙贔屓され、生かされ、太陽とたった一点のみで接して暮らし続ける怠惰を大目に見てもらってきたかという事を表す動かぬ証拠であり、かつて光が突然7つに分かれたのと同じぐらい圧倒的な真実であると同時に、淡い幻影に過ぎない事も表している。しかしそれもただそれだけなのかもしれない。

 自分を『俺』と呼び、『僕』と呼び、『私』と呼ぶ。

 小説を書く上でこれは、駄目ですね。人称を一致させるためには呼び方も一致させなければいけない。でも私はなにも私として私の意見を書いているのでは決してないのです。書かないと何も残らないから仕方なく書いているのです。出来事や記憶ばかりがまるで蝉の抜け殻のようにその正体もなく、あちこちに散らばっているのは、どうにも気持ちが悪いですからね。だから私はその出来事や記憶ごとに従っているのです。従っているつもりなのですが……、

 あまりにも文章力が拙いため、今目の前に起きている事ですら、こんな風にあっちこっちと趣旨が飛び、取り留めもなくなっているのです。お恥ずかしい……。しかし現実を一点に絞れば、それ以外のすべてがウソになるという、それがどうにも、私には居た堪れないのです。

              *

「ただいま」と言って少年が1人、続いて「今戻りました」と言ってもう一人入ってきました。おそらく彼らが『昔の子』『今の子』でしょう。

 お帰り、暑かったでしょ? 私はそう言って彼らに微笑みかける。何の意味もない、誰のためでもない私の笑顔。でもそれはぴったりと現実に当て嵌まっています。

「もう、死にそうですよ」顔を真っ赤にした『昔の子』が言います。それは比喩でも冗談でもなく本当の事なのでしょう。そりゃあ、そうでしょう、だって、

 8月と言えば実際に日本が真っ黒焦げに焼かれたのと同じ月ですから。晴れた空を見上げていたら、突然黒い雲が現れて、あっと思う間に、滝のような雨が降ってきました。

 これが、その時は真っ黒だったそうだよ。知らんけど……。

 『昔の子』『今の子』も、へぇ……と言って聞いています。

「別に『黒』という色が悪いんじゃない。本当に悪い部分は……。」

 そう言いかけてやめました。本当に悪いのは他でもない、良く知らない記憶をやみくもにかき集めては、よくわからない世界について出鱈目を喋っている私なのですから。

 なんであれ、そんな雨はもう2度と降らないに越したことはないよね。

私が言うと、2人は同時にうなづきました。

『昔の子』が亡くなった少し後の事です。

『今の子』が生まれるずっと前の事です。

 きのこ雲はまだ山の向こうに見えてます。人々の悲鳴は蝉の声にかき消されて聞こえない。私は大方、何かの目的でその山を越え、爆心地へと向かおうとバス停にでもいるのでしょう。そして汗をぬぐい、雲を見上げては地獄の業火を穿つ雨の臭いでも探しているのでしょう。

 いいかい、世界は一つなんだよ。色も一つだ。でも見る角度によって全然違う。それをいちいち真実だ! いや違う!と言って争うのかい?

 いいかい、心なんてどこにもないんだよ。あるのは誰かが持て余して捨てていった残骸だけだ。我々にとってはそれがすべてで、それ以外は、自分もやがてその残骸の一つになるという予定調和が1つあるだけなんだ。

 あぁ、確かに虹はきれいだよ。それは間違いない。でもな、あの日、あの雨の後、今と同じに虹が掛かったというんだよ。そうしたら同時に、そこらじゅうからいろんな欲望が噴出してきて、自分が一番好きだ! 自分が好きで何が悪い! お前らは勝手にしろ!と。俺は是非善悪もない瓦礫の只中を、ブレーキが壊れた自転車みたいに一気に走り抜けた。 

 

 虹の橋を渡る大勢の人の姿が見える、そんな角度があるいはあるのかもしれないが私には見えない。

 でも見えたとしても、渡り切ったそこにはやはりいつか見たような景色が続いていて、その累々と広がる残骸がどんなに悲惨で醜く臭くても、僕たちは決してそれを片付けてはいけない。それはウソになるから。

 やってきた事を正しく見るには、なにも改ざんしてはいけないからね。

              *

 膝のリハビリも兼ねて、真冬の公園を歩いていたら、木の幹に蝉の抜け殻が一つ、しっかりと掴まっていた。

 冬の日差しの中で尚君は、夏をその眼の中にとどめ置くつもりでそんな事を続けているのか? 木の幹よ、あなたはそんな小さな反則を企てる抜け殻に気付かないフリをして優しさを見せているつもりなのか。

  セミの抜け殻を『君』と呼び、木の幹を『あなた』と呼ぶ。

 これは『擬人法』といい、小説を書く上ではごく初歩的な表現技術ですよね。幼児教育においてこれと似た『アニミズム』というのがあるのですが、玩具や食べ物に命を吹き込んで、「ほら、トマトさんが食べて欲しいって。捨てられるの嫌だなぁって泣いてるよ。」などと言って愛情や、優しさ、命の大切さなどを養う方法として使用されているのですが、

 うちの息子はプラレールでこれを実践してみたところ、「今日はプラレールと一緒に寝る」と言って一緒に寝てました可愛い!!

 こんな可愛い子達を戦場に送るような未来は、絶対に選ばない。



       第93章 『落書き』

 なに描いてんの?

ん?  絵だよ。とっても大事な絵だよ。

 ふ~ん、と肩越しにのぞき込んでくる息子がとても可愛い。私は息子の細い息を耳元に感じながら思う。

 興味津々のようだが、君にこの絵は見せられないな。この絵が完成したらすぐ、私はある男にこれを見せに行かなければいけない。

 さて、私の幸せな時間はすべて過ぎました。あとは過去とも未来ともつかない時間を出来るだけ正確に捌き、あしらうだけ。でもそれは死後に札束を数えるような空しい行為でもあるのです。もはや腹も減らない、眠くもならない、性欲もない私にとって札束は、いかにも無益で無力で、あらゆる行動と思考を苦痛に変えるだけのモノなのです。

 蝉しぐれでしょうか? 

 私がそう尋ねても、彼は何も言いません。ただ幽かな風と穏やかな景色を背景に微笑んでいるだけ。それはまるですべてを誤魔化そうとしているような姑息な態度にも見えるので、私はせっかくのこんなに完璧な安らぎの中に腰を下ろしながらも、少しイライラしなければなりませんでした。

 私はこれまで、何処で誰として何をしてきたのか、何も思い出せません。でもこれを忘却と言って簡単に打ち捨ててはダメなのです。私は思い出せないのではない。知らないのです。そして私は尚、粛々淡々とこの、腐った豆のように細々として糸を引く、有り余った時間の粒をうまく捌き、あしらわなければいけないのです。

 眩しい!お腹がすいた!怖い!息ができない!助けて!

 私が本当に幸せだったのはたぶんこの5秒間ぐらい。

私が本当に健康でいられたのもたぶんそれから10秒間ぐらい。

 だって人間の脳が何かを判断を下すのに必要な時間はせいぜいそんなモンでしょう。あとはそれを軸に思い込み発展させたナニモノかが拵えた気儘な裁量によって与えられる時間をただ啄むだけなのだから。

 名前? それは焼き鏝でナンバーを焼き付けるのと同じです。

 卑屈? いえ、卑屈ではありませんよ。私はただ簡単な事を出来るだけ簡単に言おうとしているだけです。もっと簡単に言いましょうか? はい、じゃあ言いましょう。

 つまり私は、圧倒的に美しくなかった、という事です。

 心も、体も、健康も、見た目も、頭脳も、性格も、声も、臭いも、筋力も、知性も、個性も、可能性も、温度も、湿度も、体温も。とにかく、私はいつどこでも、誰にとっても要らない存在。平たく言うと、生まれるべきではなかった存在。いや、生まれたければ勝手に生まれればいい。それは私とは関係のない事だ。助産師さん、産婦人科医さんは私が無事生まれる事に全力を注いでくれた事は間違いない。でも彼・彼女は別に私の幸せを願ったわけでもなければ、私に幸せになって欲しかったわけでもない。ただ自分の目的を果たしただけ。そうして個人的に満足したかっただけ。その他の私に関わった人間だって、一人余さずすべて一律にそうでしょう。エリ・ヴィーゼルは、『愛情の反対は憎しみではなく無関心です。』とそうおっしゃった。さすがにお目が高い!その通りだと、私も思います。憎しみはある意味、愛情の別の側面であり、愛すべき狂気であって、人は人を愛を欲するあまりその炎の中に惜しげもなく憎しみを放り込んでは永遠に燃やし続けようとする。あたかも愛情の炎が憎しみを燃やす尽くすかのように思い、うっとりとその炎を眺めようとするのです。

 でもそれは違う。それでは憎しみが費えた時、愛情の火も消えてしまうのです。そうして愛情同士が相殺し合うのを見て陰で薄ら笑いを浮かべているモノこそが無関心。愛すべき喜怒哀楽が寂滅した後も尚、私がこうして札束を数えなければならないのはその無関心の命令なのです。気を付けてください!無関心は人間をダメにします、しかしダメにするのに、人はその無関心こそ真の安寧であると、そればかりを使いこなそうと真剣に努力するのはなぜでしょう。気を平らかにし、心穏やかに凪、万物を等しくすることで不動の真実を見出そうとするのはなぜでしょう。

 

 卑屈? だから、卑屈じゃありませんって!

 だって私、私の他にも、生まれるべきではなかった人間をたくさん知ってますもん。たくさん生きています。町を歩くと、あっちからこっちから、どんどんこっちに向かってきます。楽しそうなヤツもいれば、つまらなそうなヤツもいて、あぁ、コイツも、そんな事とは知ってか知らずか笑ってやがる。勝手な苦労してやがる。泣いてやがる。そしてとんでもない勘違いしてやがる。薄っぺらい考えで書かれた駄々分厚いだけの重い本が世界中にいろんな言語で流布されたこともあって、いま彼らはあたかも自分もここに居てもいい存在であるかのような勘違いをさせられている。そしてそれが原因で悩んでいる。苦しんでいる。泣いている。それはもう滑稽の一言で、自分で勝手に阿呆ほどの塩をぶち込んだスープがしょっぱ過ぎると言って泣いているようなモノで、呆れるか笑うかしかありません。しかし、

『違うんですよ。あなたのその渾身の、一世一代の解釈の是非善悪がどうのこうのというのではなくて、つまりすべては無価値という事なんですよ』そう言いたくても私はそれを言う事が出来ません。なぜならば私は彼ら同様、彼らは私同様、基より何も認められていない。求められていない存在なのだから。だから彼らが笑うのは泣くのは悲しむのは怒るのは、そんな彼らの価値を不当に高めてしまう決してやってはいけない詐欺行為なのです。世の中の一番大切なバランスが崩れる。いたずらにしても度が過ぎている事なのです。確かに、かの分厚い本やらその他、いろんな蛮人の妄言に煽動せられ、ほとんどの人がわからなくなってはいますが、彼らにその資格がない事は、性格や所作や、言葉遣いや受け答えの中にもはっきりとその痕跡が見て取れるのです。

 芸能人や、政治家や、有名起業家の中にも、その痕跡を恥ずかしげもなく曝している人が大勢いますよ。ですから私がもし、何かのきっかけでそんな人たちと一緒に酒を飲むような事があったら、酒好きな私の素性もあいまって言ってはいけない事を言ってしまうかもしれない。

「あなたは生まれるべきじゃなかった人だよ。誰もあなたが生きている事を好まないし望まないし、あなたのやる事に誰も賛成も反対も唱えないし感動も感謝もしないんだよ。あなたが動くこと、考えることはすべて無意味、いや無価値なんだよ。」

 と言うとさすがに気分を害する事でしょう。きっと激怒する。

 何か待ってるんでしょうか?

 私はイライラを押し殺してそう尋ねましたが、彼は尚、じっと遠い目をして私を無視し続けています。そうしている間に、私はその漂ってくる音が、『ミンミンゼミ』と『エゾゼミ』の鳴き声が混ざったモノである事をつき止めます。『ミンミンゼミ』はもう説明不要かと思います。夏に五月蠅く鳴くアイツです。『エゾゼミ』は、エゾ、という割に全国に広く生息していて、ただ平地には少なく、比較的標高がある土地に生息している、丸美屋の『のりたま』のような美しい色合いをした蝉です。

 何を待ってるんでしょうか?

 私は『忙しい人』に擬態してみました。大概の忙しいと自覚のある人は目的もなくじっとしているのが大の苦手で、そのうちに、『自分はきっと何かを待っているのだ』と考え始めてしまうのです。そしてゆくゆくは然るべきところで然るべき行動をとるのだろうと期待し始めてしまうのです。しかしそれは資源や食料の他人に先んじて買い占めてしまうと同じ浅ましく厚かましい行為で、必要のない時間を山ほど備蓄しようとする野蛮な行為で、私のような幸せな時間を終えたモノが、この場所で無口な彼と過ごす時間を、なんの目的も方向性も価値もなくした時間を、生まれて間もない赤ん坊から取り上げるような言語道断で鬼畜千万な行為なのです。これが『無関心』なのです。

 そしてこれこそが本物の謎なのです。 答えがない事とわかりきったうえで、私は尚、彼に訪ねているのです。

 やがて彼は、そうだね……、と呟きました。

やっと反応があったのを見た私はそれと同時に、サッと絵を取り出して、「今日はこれを見せに来たんです。」と言いました。彼は私よりもその絵に向かって、

 なんの絵ですか?

と訊ねました。

 父です。幼いころ、父は私を嬲り殺しにしようとしたのです。

幸い、なんでしょうかね。わかりませんがとにかく、私はその時は死なずに済んだのですが、実はそうでもなかったのです。

 それからも父は私を殺し損ねたことを心底後悔している様子で、

私が私がバイクで事故を起こした時も、事業に失敗して巨額の借金を抱えた時も、結婚すると報告した時も、嬉々として煩わしいという態度を崩しませんでした。

 ほう……。

 私はもう彼の正体がわかっていましたが、今しばらく、彼の芝居に付き合ってあげる事にしました。彼は、似てますか?と言いました。私は、

 とんでもない!似てるわけがないでしょ! とやや大袈裟に言いました。

 似せてどうするんですか!私を殺そうとした男ですよ。本当なら見たくもないですよ。でもそれじゃあ私があまりにも惨めだから、それを回避するために、わざわざ家族に隠れて夜中にこっそり描いたんです。

ところがそれを迂闊にも幼い息子に見られてしまって、まあ往生しましたよ。ハハハ……。

 会話はいたって平板です。ウソもホントも、こうやって混合してやがてぼんやりと真実になって行くのでしょう。まさに愛情と憎しみの関係と同じですね。でもね。

 似たなくったって構わないんです。ただ、それが、お父さんだと、そう言って描いてあげる事こそが、愛なんですよ。あなたは、正しい事をやりました。私はただ、そのことだけが、嬉しい。

 そいう言うと彼は、目に涙をいっぱいに浮かべて初めて私の方を観ました。そして私は心底驚いたのです。

 こんな事も出来るんだ……。まさに世界一、いや宇宙一だね。恐れ入谷の鬼子母神……。私はこんな恐ろしいヤツに無謀にも挑もうとしているのか……。

 彼はそっくりだったのです。私が無意味な時間を駆使して、無駄な喜怒哀楽を駆使して、あらゆる矛盾に抗して描いたその絵に。

 息子は明日から野球部の合宿で2泊、北陸に向かいます。でも天気がね、あまりよくないようだから、それだけが心配ですね。でも行くからには有意義な時間を過ごしてほしいモノです。どんな形であれ、有意義な時間を。でも一番は、サッサと無事に帰ってきて、また当たり前みたいに、私の時間にデレっと寝そべってほしいのです。無関心など、かけらもない私の時間の上に。

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