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『いきてるきがする。』《第19部・冬》




   第97章『後縦靭帯骨化症という愛。(その1)』

 3か月ぶりの定期健診で、だいぶ症状が出始めてますね、と言われた。

『後縦靭帯骨化症』って知ってますか?

 頸椎の神経の周りの靭帯が『骨化』、つまり骨になってしまう病気で、骨化した靭帯はやがて神経を圧迫して、ひどくなると首から下が麻痺して動かせなくなってしまうという『原因不明の難病』です。

「ほら、交通事故などで頸椎を挫傷して首から下が動かせなくなったりするでしょ。あれに似たような状態になる。まあ似た症状といっても程度は人それぞれなんですが。」

 と新しい主治医は残酷なほどわかりやすく私の今の状態を説明してくれた。

 うん、確かに。そう言われれば以前よりもノック式ボールペンをカチカチやりにくくなった気がする。細かい文字も書きにくくなった気がする。そうか、そうなんだ、じゃあ私はいつか首から下が動かなくなってしまうんだ……。

いえいえ、まだそう決まったことではないんですが……。

 電動車椅子に乗って歩道をヨチヨチと進む年老いた自分の姿をぼんやり想像しながら私は、じゃあ、パソコンは? と間抜けな質問をした。

 もちろん、そうなってしまったら打てません。とまたわかりやすい答えが返ってきた。 そりゃ、そうだろうね……。

 まあこれも一種の老化と考えれば、誰しも生老病死は免れぬわけだから諦めて他の事を考えるのがいいのだろうが、だがしかし、つまりそうなると私がコツコツと構築してきたこの、生ブログ風小説『いきてるきがする。』のデータをの更新が出来なくなってしまうという事になる。つまりこの物語は停止する。私の体同様に完全に麻痺してしまう。それは私にとっては一大事なのだが、そんな事とは気付く様子もない主治医は、「だから出来るだけ早い段階での手術するのがいいと思うんですが、はどうですか?」と言った。

「ん~……。でもね先生。前の担当の先生にも言われたんですけど、その手術をやっちゃうと首が動かせなくなるんですよね。」と私が言うと新しい主治医は、そうです。とまた端的な答えをくれた。

「首が動かなくなると、今のドライバーの仕事はもうできなくなるってことですよね。後方確認とか、出来なくなるってことですよね?」

 それに対しても主治医は、「そうでしょうね、おそらく。」とまた端的な答えをくれた。

「それに、手術したからって、必ず良くなる、もう再発しない、ってわけでもないんですよね。」

「そうですね、手術しても、今より良くなることはありませんし、再発の可能性は常にあります。」

「でも、首が動かなくなるって事だけは、確実なんですよね。」

「そうですね、固定してしまいますから。」

「じゃあ、今すぐにはちょっと無理かなぁ……、」という私の囁きに対し新しい主治医は「じゃあ今度は3か月後の2月でいいと思います。まあ進行性の病気ではないのでね、何かあったらすぐ来てください。」とあっさりと話を引っ込めた。

                *

 病院を出ると空気は冷たく澄んでいたが、並木の木漏れ日だけは斑に暖かかった。そのどっちつかずなバランスがまるで自分の『今』を表しているように思われた。

 あぁ……、今の自分には、面白い事と辛い事が混在して一気に進行している。

 このお互いに無関心で決してぶつかり合うことない2つの側面は、時間になったり空間になったりを繰り返し、やったろか? やめたろか? と私の『今』を鷲掴み、捩じり上げていく。そして新しい主治医の「出来るだけ早い段階での手術がいいと思うんですが、どうですか?」という言葉そのままに、私を救おうとしたり、奈落の底に突き落とそうとしたりしている。

 しかしそれは残酷なようでいて実は、とても尊い愛でもある。

               *

 いいかい、お前はバカだけど根はいい子だ、要するにリハーサル通りの態度で望めよ、と母の冷たい手が散髪したての私のザンギリ頭のポンポンと叩いた。私は兄弟たちと一緒に父の運転する白いマークⅡに乗り、隣町の祖母の家までお正月の餅を丸めに行く。タバコと消臭剤の匂いが入り混じった地獄のような車内は、時間と空間を今と同じに、きっと楽しい事があるぞ、という気持ちと、また一人ハブられて嫌な思いをする、という気持ちをぐるぐると捩り合わせていた。私はずっと不思議に思っていた。なぜ私よりも年下の従妹が、当たり前のように親戚の輪に入り込んでいるのに、私は未だにその輪に入れずにいるのだろう。そんな事を考えている私のみっともない挙動が余程皆の優越感を刺激するらしく、従妹たちは、私の一挙一動を間抜けなモノとして茶化しては笑いの種にし、ますますその『親戚』という、私から見れば氷の結束を強固していく様だった。

 やがて粉が敷き詰められた長い板の、一番遠い端に私は笑い合う従妹に混じって座らされた。これから始まる悲劇は容易に想像できた。初めからわかっていた事は、おばあちゃんが投げる餅など、私のところには届かないということ。

 京都のお正月の餅は丸餅。

  おじいちゃんによって突かれた餅はおばあちゃんによって手際よく適当な大きさにちぎられ、そのまま孫たちが待ち構える粉を敷き詰められた板の上にポンポンとリズムよく放り投げられる。

 年かさの4人の孫たちが素早くそれをつかんで左手をお皿のように、右手を伏せたお椀のようにして、両掌でくるくると丸めていく。その時も、時間と空間はまだ、自分も餅を丸めたいというワクワクした気持ちと、誰も私に餅を中継してくれないかもしれないという不安な気持ちをぐるぐると交錯させていた。

  約40分。すべての作業は終わったがやはり案の定、私のところへは一つの餅も飛んでこなかった。

 それはわかっていた。そして私はこの時より、様々な嫌な事を我慢しなければならなくなっていた。まず年が明けると、我が家はまたここに年始の挨拶に来るに決まっている。まあ、よく来たねぇ、あけましておめでとう、なんて一見にこやかに迎えられるものの、お前は従妹の中で一人だけ、一つの餅も丸めていないのに、いざ年が明けると、さも餅を丸めた従妹たちと同等の孫のような顔をして再びこの家に現れ、まんまとお年玉をせしめ、さも旨そうにこの、誰が丸めてくれたかもしれない他人の餅を、ド厚かましく貪り食うつもりだろう。

 という声がもうすでに聞こえていた。

 その日の夜は従妹たちとカードゲームをやった。私はやはり、おそらくは『私だから』という理由で一人前扱いはされず、おばあちゃんとペアを組み参戦した。

 おばあちゃんは優しかったが、どう考えてもこのゲームに於いて私の存在は不要だった。

 おばあちゃんは、勝ったり負けたりしたが、カードゲームが進むにつれ、私は不要という時間と空間の締め付けはどんどんと強くなり、とうとう耐えきれなくなり、家に帰ると言うと、おばあちゃんはびっくりした様子で、どうして?どうして?楽しないの?ゲームしてんのに?と何度も訊いてきた。その顔があまりに心配そうで、ちょっと申し訳ない気もしたが、私はもう、死んでしまいそうなほど、そこにいるのが嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌でたまらなかったので、両親と一緒にその日は泊まらずに家に帰った。誰もいない部屋の明かりをつけると、居間の様子が蛍光灯の寒々しい光の中に浮かんだのを覚えている。この家でも自分は歓迎されていないことが改めてよく分かった。酔っぱらった父が、

「まったく、どうしてお前はいつも一人だけ違う事をするんだ。なぜ他の子たちと仲良くできないんだ。親戚に行ってまで、親に恥をかかせて、何が楽しいんだ。」とののしった。

                *

 

 私には今も、自宅の玄関の端に、人一人がようやくくくれるぐらいの穴がはっきり見えるんです。それはこの物語の序章で私が、あまりの自分の不甲斐なさに絶望して、もうすべてから逃げようとして、踏切に飛び込む代わりに飛び込んだその穴です。そしてその穴の中の様子については、これも序章で言ってますが、こうして皆様とのコミュニケーションが続く限り、今後も一切説明はしません。だからそういう意味でも、私のこの『後縦靭帯骨化症』は、皆様とのコミュニケーションを断ち切り、そして私をこの質の悪い抑圧から解放してやろうとしている、残酷な天使であり、優しい悪魔でもあるのです。

 私はいつもこうして常に私の目の前に重々しく垂れ下がる記憶の死骸を掻き分けてながら、穴を潜り二人のいる店を訪れているのです。

 2人は今日も店を清浄に保ってくれています。麗らかな冬の日に照らされて、50歳をとうに超えたであろう金魚たちも頗る元気に泳いでいます。妻の焼いたパンの匂いも香しい。こんな現実があることを、おそらく私以外の誰も知りません。

 なんか売れた? と訊くと『今の子』が、最近は小物がよく売れます。と答えてくれました。

 そうですか。それはよかった……。

 しかしいつか本当に私の首から下が動かなくなった時、この店はどうなってしまうのか。あの狭い穴をくぐって現実の世界にお引っ越しをするなど到底不可能です。そうなる前に、私はこっそりとこっちの世界に移動して、どうにかここで、2人と暮らすわけにはいかないだろうか。そうしなければ、私にはきっと、生きていく術などありません。そもそも全体、あの穴をくぐった時から、私は自分が生きているのか死んでいるのか判然としないでいるのです。そうでなければ、私はどうやってあの2人をこっちの世界に呼び寄せるつもりなんでしょうか。あの2人はどういう形であればこの穴を抜けてやってくる事が出来るのかと、私はそれを今、真剣に考えているのです。

 私はそろそろこの2人と自分の関係を、つまり自分にとっての、この2人の正体を見極めなければならないようです。私は記憶の中のいったいどこに、この2人は引っ掛かっているのでしょうか。私の知っている誰に、この2人はそれぞれ似ているのでしょうか。まずはそこから考えてみたのです。 

 戦時中に餓死した『昔の子』と、親からの苛烈な虐待に自殺に追い込まれた『今の子』。

『昔の子』は戦前に生まれたのだから、現実には私よりもずっと年上だと考えられます。ひょっとして私に何の関わり合いもない人なのかもしれませんが、そんな人の事をきっと、私は想像できません。人が想像に及ぶのは実際に接した人に限られるはずです。それはずっと昔から、あらゆる美術・文学・音楽を通じて人間そのものが証明してきた、いわば人間の性能の限界なのです。いったい『昔の子』とは、私の中の誰の事なのでしょう?

 私には戦争で死んだ叔父がいるそうです。享年、18歳。少年というには微妙な年齢ですよね。とつとつと戦争について語る祖父の口からも、ちょこちょこと出てくるその人の名前は、もう忘れてしまったか、もともと知らないか……。 

                続く。


 第96章『ウサギとペンギン』

 去年はウサギの着ぐるみでエライ目にあったから、今年は普通のバイトにした。でもなるべくお金のいいやつ。年末までの短期バイトだから、多少無理してでも稼がないと彼女と過ごすスイートなクリスマス&ハッピーニューイヤーが今年もまた台無しになってしまう。

 彼女が欲しがってた服に合わせて、俺もそれなりにいい服を選ぼう。だからそのために、ちょっと怪しいけど時給がやけに高い、24時間徹夜通しのオフィスの引っ越しのバイトを選んだんだ。

 思えば去年は、本当にひどいクリスマス&ハッピーニューイヤーだったなぁ……。

               *

 JR大森駅前に午前5時半はまだ真っ暗で、よく見ると風に揺れる捨て看板に混じって、何やら怪しい人影がいくつかあって、パンを齧ったり、煙草を吹かしたりしている。とうとう俺も、この仲間に入ってしまったか……。

 初めに言っておくけど、俺は強烈なレイシストだ。人種とか国籍とか性別とか、そんなわかりやすいモノばかりじゃない。生まれた都道府県も、声も、顔も、血液型も、背の高さも、髪の色も、直毛かくせっ毛かも。とにかくすべての違いを、俺は差別する。そしてそのすべてにおいて自分がゼロ点で、それ以外はマイナス。

 だから俺の世界基準とは、

 日本人の男で、京都府出身のAB型で、声はやや低く、顔はやや大きく、身長は175㎝で、髪は巻き毛で、メンヘラで派手好きな日本人の彼女がいること。これが世界基準であり、それ以外はすべてがマイナス、ということになる。俺がこんな捨て看板野郎どもに混じってたまるものか、同じ仕事をしていても、猿と猿真似は全然違う!そうだろ??

 とにかく、平等なんて言う胡散臭い概念が世界中に差別をまき散らしていることはもう疑いようもない事実だ。俺はそんな茶番と一年かけて戦って来て、きょうやっとここにたどり着いた。ここは、どこだ?この世の底辺か? 俺はこの捨て看板野郎と一緒に、たぶんこのまま、今ハザードを点けながら近づいてきた小汚いワゴン車に乗せられてどこかのオフィスに連れていかれることだろう。

   いいじゃん、なんて普通なんだ。

 夜が開け始めた窓からベイブリッジが見えた。なに?横浜? そんな方に向かってるの? いろんな形のビルがたくさん並んでいて、まるで陽気な墓場のような街だ。隣のおっさんはぐっすり寝ている。ああ、コイツはこんな景色見やしないだろう、見たってなにも感じないだろう。ぼんやり酒臭い。こんなヤツでもできる仕事が、こんなヤツに払う金が、この世の中にはまだまだたくさんあるんだなぁ。先進国ってすげぇな、すべてが茶番だよ。ナメたもんだよ。

 オフィスに着くと、同じようなワゴン車から同じような連中がぞろぞろと降りてきた。いずれ劣らぬ、役立たずの顔。こんな奴らと仕事をするのは誰だって嫌だろう。そしてきっとみんなお互いを見てそう思っているに違いない。そして俺もそのうちの一人。

いいじゃんいいじゃん、極めて普通じゃん。

 仕事はきつかった。オフィスの機器は全部アホのように重く、昔やんちゃしてました、みたいないかつい現場主任が、精密機器だから揺らすなよ、壊したら自腹だからな。なんて言ってる。じゃあ試しに壊してやろうか。お前が主任なんだからお前が責任被らないわけねーだろ。

 そして昼。一応1時間の昼休み。飯を食うのも億劫なほど疲れていた俺は、黒コッぺを半分だけ食べてとりあえず寝ることにした。オフィスの床は思ったよりずっと優しい触感だった。

 ポツポツと水滴が落ちる音が聞こえる。それが何の音だか、俺は気付いていながら、ん? 何? 水道の、栓かな? なんて間抜けな事を言って笑っている……。

 俺は逃げている。本当の俺はしっかり手を握って、大丈夫だよ。大丈夫だよ。なんて囁いている。

「おい、起きろ。午後だ。」そういわれて目を開けると本当に午後になっていた。午後も仕事はきつかった。みていると、怠けている奴はだいたい決まっていて、軽そうなパーティションとか、電話機とか、コピー用紙の空箱ばかり運んでいる。行きの車の中で寝ていた酒臭いおっさんはもちろんこのグループに属している。同じ労働時間に対する仕事量の圧倒的な差が、レイシストの俺を寧ろ生き生きとさせる。俺の軍手はボロボロなのに、オヤジらの軍手は抜けるように白い。事故が起きればいい。必ず、明日の朝までに、どこかでデカい事故が起きますように。そんな言葉を呪詛のように反芻しながら、俺は敢えて重い機器ばかりを運んだ。本当のレイシストは行動が伴わなければ成就されない。違いを徹底的に見せてやらなければ、すべてがマイナスの野郎どもに本気で失望することなどできない。ビルの外に出るたびに俺の体じゅうからもうもうと湯気が立っていて、まるで印象派絵画のようになった自分が、実はそれほど嫌いじゃない。

 差別って、こういうところに優しく作用したりするから嫌われるんだろうな。差別の結果が美しいなんてそれこそ茶番だと。役立たずどもはそう言いたいんだろ?  

 頑張ったことがないお前らはこんな湯気、一生立てられないぜ。空箱ばっかり運びやがって。あの酔いどれオヤジに、仮に俺の仕事をやらせたら、湯気が立つ前に必ず言うだろうな。 差別だ! って。そうだよ、それがどうした?どっちでも好きな方にいろ!! 誰がお前なんか平等に扱うかよ!

 

                 *

 頭の中で槇原敬之などをかけながら、僕はウサギの着ぐるみを着て風船を配っていたんです。付き合っていると思っていた彼女が来月結婚することが分かり、もう気持ちがグチャグチャで、自分が人前で顔を曝していることにすら容認できなくなっていたので、僕は仕方がなくこの仕事を選んだんですが、やってみると、そこにはもう哀れな自分はいない。そればかりか知らない人までニコニコと手を振ってくれる。ウサギパワー、すげー!

 僕は自分にはウサギになりきる才能があると気づき、もう風船を嬉々として配りまくったんです。子供達は大喜びで受け取ってくれるし、可愛い女の子が、一緒に写真撮って、なんて。

 なんて素敵な、嘘っぱちな世界。

               *

「10月いっぱいで退社するって聞いたけど、そのあと、どうするの?」

「結婚する。」

そんな言葉って、この世に、ある?

 急に心が逆戻りした。せっかく自分がいない世界を思う存分に楽しんでいたのに……。

 クリスマスのイルミネーションに彩られたアーケードから流れ出てくる人ごみの中に、僕は、シュッとしたイケメンと歩いてくる彼女をみつけた。クリスマスカラーを指し色に、オフィスでは見たこともないほどオシャレに着飾った彼女が、僕とは似ても似つかない背の高いマフラーをふんわりと巻いた上品な男前と一緒に近づいてくる。

 あ、ウサギさんだ! 聞いたこともないような甘えた声で彼女が僕を見て笑っている。ウサギさん、私にも風船ちょうだい。 僕は一瞬たじろいだ。まだ2か月しかたってないんだから、彼女が世界で一番好きな事に何の変りもなかった。しかし僕にはウサギになりきる才能があった。僕は、ウサギ、僕は、ウサギ!ここぞとばかりに思いつく限りの可愛いポーズを、僕はとった。可愛い!!彼女は大喜びで、イケメンも喜ぶ彼女に満足げだった。僕は風船を一つ取り、紐の先に輪っかを作った。そして彼女の左手をとり、薬指にその輪っかを嵌めた。

 え?ウサギさんにプロポーズされた? どうしよう!

 彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、僕はすぐに手をたたいて、両手を大きく広げて二人を祝福するポーズをとった。男前は、ありがとう、と照れくさそうに笑った。

 遠ざかっていく2人の姿を見ながら、僕は自分のいない世界が、どれほど円滑に回っているかを痛いほど知った。自分がすべての基準からずれている。自分がいない事が、すべてにおいて正解。

                *

 つまりだ。俺が今こうして生きているという事は、俺以外すべてが不正解でないと辻褄が合わないという事だ。水の落ちる音が、ぽつ……、と止まった。

 徹夜作業では午前零時を回ると『午後』という。自分の膝小僧の上で目を覚ました時、メールの着信がある事に気づいた。彼女のお母さんからだった。

『幸恵、今、亡くなりました。』

 とびきり重いコピー機の前にはなぜかあの酔っ払いのおっさんが一人座っていた。昨日の朝からさんざん逃げ回ったがとうとう一番重い仕事に捕まっていた。飲み足したのか酒の匂いはあいかわらず強かった。レイシストの俺は嬉々としてオッサンに近づく。

 「こういうのはわけぇ奴が率先して運ぶもんだろ、年寄り当てにすんじゃねーよ」など、ブツブツと不潔な愚痴をこぼすわりに全然力を入れないオヤジに、俺はイライラとしながらも何かの答えのような不思議な感覚を得ていた。なんだろう、この、変な感覚……。

 幸恵が自殺を図ったのは今月の初めだった。もう何度目だろう。気を付けてはいたが今回も防げなかった。バイトが終わり、ウサギの頭を外した瞬間に、俺のいない素敵な世界は完全に消えた。そして真っ暗な世界には俺と幸恵だけがいた。まさかこんな子が、ペンギンの中に入っているとは思いもよらなかった。

 幸恵は触れ合うことを極端に嫌った。まなざしが触れ合う事すら嫌がった。俺にはその訳が手に取るように分かった。自分自身を認められないモノにとって、触れ合う事が一番質が悪い誤解なのだ。

 そうだよ、他人なんかどのみち、自分勝手な勘違いをして、自分勝手に幻滅して去っていくだけのモノなのだから。しかし幸恵は殊更明るく振舞おうとした。自分を無視して、無理やり楽しそうに生きていた。そして常に血を流していた。

 ねえ、今度一緒にディズニーランド行こうよ!! 派手に着飾って、ミッキーとハイタッチして、ピースして写真を撮って。もう見ていて涙が出るほど、彼女は必死に無益な無理を頑張るのだ。

 よし、じゃあ今度、お金貯めて一緒にイタリアのフィレンツェに行こう! フランスシャンゼリゼ通りにも行こう!リオのカーニバルも見て、フィンランドにオーロラを見に行こう!

 そんな言葉が、果てしなく彼女を傷つけている事に、俺は気付いていたに違いないのに。

 彼女の母親は、なぜ俺にメールをくれたんだろう。それも、たった一言。

『幸恵、今、亡くなりました。』

 これは俺への痛烈な呪詛かもしれない。

「お前は私から娘を奪い去った。私があの子の居場所を、これまでどれぐらい丁寧に構築してきたか、お前にはわかるまい。いや、すべてわかっていたくせにお前は、愛だの信頼だの希望だの将来だのと、あの子にとって一番の猛毒を次々と含ませて死へ追いやった。娘が本当に望んだものは、花のように咲き狂い、大気をその香で充満させ,やがて散り失せる豪奢な死ではなく、湖のように何もかもが遠く、何もかもが儚く、何も手に触れられない静かな生だった。その事を、あんなにわかりやすく、あの子なりの精一杯アピールして必死に助けを乞うていたのに。お前はそれを見殺しにした。お前を見て、あの子と同じ目をしたお前を見て、一瞬でも安心した私をお前は声をあげて笑うがいい。ただ、あの子はお前を愛したのではない。お前だってそうだろ?あの子を愛していたわけじゃない。ただ助けを求めていた、それだけだろう? それでよかったのに……。この世の底に溜まった汚泥からするすると奇跡のように並んで伸びた二輪の花は、そのまま未来永劫、そっと寄り添ってくれれば、それだけでよかったのに。あの子はお前に殺された。いや、あの子はお前の代わりに死んだ。だからお前はこれからも、死んだように生きろ!生きながら死ね!

あ、殺意だ。

 廊下を曲がる、ちょうどコピー機と壁の間が狭くなる時に、俺はグイ、っと押してそのまま手を離した。ドスン!という鈍い音とともに、おっさんは廊下の角とコピー機に挟まれ、ギャーという珍奇で耳障りな叫び声と同時に酒の匂いをまき散らした。

痛ぇ!てめぇ、早く、ど、どかせ!早く!!

 知らねーよ!ボケ!!

 俺はそのまま階段を下りて外に出た。真っ黒な空から弱々しい雪がさも意味ありげに落ちては消えた。遠くに高速道路が見えた。

 さて、東京はどっちなんだろう……。俺はとりあえず高速道路を目指して歩いた。

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