
第98章『後縦靭帯骨化症という愛。(その2)』
おせちや鏡餅、新しい年を迎える準備をして、いざ年が明けてはやはり、年賀状が、誰にも出さなくても来るんですね、毎年、数枚。当然迷惑ではありませんよ。寧ろありがたい。おめでたい。お気遣いありがとうござます。手数かけさせてすみません。新年早々の無礼・不作法を恥じております。ちゃんとそこまで思います。それにその返事をする準備も、実はもう去年の内から出来ています。あらかじめ干支にちなんだ動物のレコードのジャケットを選び出して、ちょっと加工して使います。今年はアリスクーパーの『コンストリクター』をアレンジ。正月早々、こんな年賀状が着いた方は、さぞ驚かれることでしょう。
さて……、
春というにはまだまだ寒い。案の定、正月なんてあっという間に過ぎて今は3月。梅は、桜は、いつ咲きましょう? などと知っていながら知らないような顔でうそぶいてみせる。これも国民総演出の予定調和で、誰も答えなど欲しくない。ただ質問をする、そういう事の中に、永遠に対する敬意と尊重を含ませているのです。これも私は、大方そんな事だろうと思ってました。日本人はそういうことをする民族です。さてその間も、私はまた何んにもしていません。この3か月間、私の態度はずっと保留されていたわけです。そして、桜が咲いたな。アジサイが咲いたな。ヒマワリが咲いたな。コスモスが咲いたな。山茶花が咲いたな、と。そこまでは簡単に思い出せるがでも、それが何年前の、何処の、桜か、アジサイか、ヒマワリか、コスモスか、山茶花か、なんて事までは付随する記憶を頼らなければ思い出せかけもしません。私は毎年、それらの季節の花々を押し花のように潰して、重ねて、そのくせ二度と見ようともしないのです。
残念ですね……。それに残酷です。私はそうして自分の時間を、経験を、逐一無駄にし続けていると言っても過言ではないでしょう。
そのくせ、こうして唐突に思い出してみては、あれは実際、どういう事だったのか。それに従ったとしたら、今のこれは実際、どういう意味なのか、なんて思いを巡らせては、汚いものにほど同情し、あれはもしかして、愛だったのかもしれない。これはもしかして、愛なのかもしれない。なんて勝手にいいように解釈してはのぼせているのです。
そしてまんまと、今回も私の甘い勇気が試されました。そして性懲りもなく私はまた、私が病む、後縦靭帯骨化症が実は私への尊大な愛である。と、結論付けてしまったのです。私の昔からの性癖として、自分の勝手な思い込みを実際の理屈に従って検証して、少しでも納得出来ない場合はそれが ウソである、と結論付ける、というのがあります。それがたとえ、科学的に疑う余地がないような事であっても関係ありません。私の検査に合格しなかった事象はすべて、 ウソである。という事になるのです。当然、その逆も然り。
私の子供を身ごもったかもしれないあの女子大生も、お金持ちを装って虚飾の豪邸で私をもてなしてくれたあの色白の少年も。実際には、いたのか、いなかったのか……。
目の前の2人を疑う事は難しくても、頭の中にいる2人ならいくらでも疑えます。今私は、3月の麗らかな日差しになびくレースのカーテン越しに揺れる数本の黒い電線をぼんやりと眺めながら考えています。幾何学模様のようなその景色はまるで麻痺しているように私を一つの時間と場所に閉じ込めようとします。そしてこれと同じ事は時々、電車の中や町の中でも起きてしまいます。見ず知らずの人をぼんやりと眺めてしまうのもおそらくこの性癖からだと思われます。
この人は、僕の親なのかもしれない。恋人なのかもしれない。いつか僕を殺した犯人なのかもしれない……。
それがあまり質のいい癖ではありませんね。もし相手が質の悪い人でならば因縁をつけられてしまうかもしれませんね。気を付けるべきでしょう。
*
叔父はトラック島の空襲で命を落としたと聞きました。享年18歳。私の父の6つ上で、色白の男前だったと聞きました。声も身体も大きくて、運動神経抜群で、リーダーシップがあって、将来は学校の先生になりたいと言っていたそうですが、祖父は息子には家業の写真館を継がせようと思っていた様で、教師になる事には反対していたそうです。しかしいざ、自分より先に亡くなってみれば、なんでもいいから元気で生きていてくれればそれが一番だと思い直すようになったそうです。そして私に対しても、
「お前は好きなことして好きに生きていったらほんでええ。こんなええ時代に生まれたんやから。それができるようになったんやから。」と穏やかに言ってくれたものでした。
叔父の写真はありません。叔父を知っている人ももういません。そして私はまた例の性癖で、『昔の子』と叔父の間の実際を理屈に従って照らし合わせて、もし合致する点が少しでもであればもう、私は『昔の子』は私のなき叔父である、と結論付けようとしています。結論ありきでは結果が偏ってしまう、という懸念もありそうですが大丈夫。われわれが思う実際なんて全てそのフィルターを通して出てきた複製物でしかないのですから。
私はひとまず、叔父が命を落としたというトラック島の船着き場の端に立ってみました。何も難しく考えないでください。すべては想像でいいんです。先程も言いましたが、実際は想像の複製物ですし、想像は先入観からしかチョイスできないし、先入観がないと目の前の事を何も理解できない事は、もう皆様もお気づきのはず。
*
生暖かい風が吹いています。石炭の臭いに混じって夕餉の匂いが漂ってきます。驚いた事に、こんな小さな島にもちゃんと町があるんですね。さすがに看板の文字とか、多少違和感がありますが、昔の映像として見るのとは違ってそれは現実の風景としてすんなりと受け入れられています。
子供が自転車を漕いで向かってきました。今の子供よりも小さいけどすばしっこそう。夕暮れ時、ライトを点けた車と点けていない車があります。
目の前の兵舎らしい建物から兵隊らしい一団が出てきました。みんな若くがっちりと引き締った体躯ですが、大人もやはり、今の大人よりも少し小柄に見えます。
しかしその中に、ひときわ背の高い兵隊がいます。他の兵隊よりも色白で、話す声も大きく響きます。
あれが、私の、叔父? 兵隊一人一人は、私をちらっと見てそのまま談笑して通り過ぎていきました。赤信号を待つその一団の様子は私が知っているの日常の風景となんら変わりません。一日の終わり、仕事を終えてそのまま飲みに行くサラリーマンの一団と変わりません。戦時下にもありふれた日常があり、ありふれた日常の中にも戦争がある。こんな当たり前のことに、私は今まで気づきませんでした。ここが、あと少しすれば見る影もない廃墟と化すことは、本当なんでしょうか?それはもう、絶対に避けられない事なのでしょうか?
私はそんな想像を、やめたり、また始めたりして、何かのバランスを取っているようです。それは個人の心のバランスよりもやや大きくて、やや難しいバランスです。みなさんは私が今、具体的に見えて当たり前で避けようのない風景だけを描写したことにお気づきになったでしょうか。私は怪しまれないように少し離れて、その兵隊の一団についていく事にしたのです。 続く……。