
第103章『緑君、書くよ。いい?(その1)』
去年の予選が終わってから一年。とうとうこの時が来ました。
かつては路上やライヴハウスで大勢の人の前でギターをかき鳴らしては過激な歌を大声で喚き散らしていた事がまるで嘘のように、私はいつの間にこんなに人前が苦手になったんだろう、なんて、正直自分でも驚いています。
おそらくこれは永遠の、世界共通の、そして私が、続いて息子が生まれるずっとずっと前からすでに出来上がっていたある大きなストーリーで。なに、誰かの使い古しでも予定調和でも構いません。私はもとより、それに則ってオヤジをこなしてきただけなのですから。
ただ、その内容・詳細についてはやはり、『今』は『今』でしかありえないという大宇宙の大原則に則り、私はこの感動的なシチュエーションに出来るだけ似合うエピソードを、現実とはまた別に考えなければなりません。
「えっと……、今日は本当に残念だったね。うん、負けてなかったよ。負けたんだけどね、実際は。でもうん、よく頑張った。頑張ったんだけど、まあ相手がほんのちょっと強かった、いや運が良かった、だけだね、きっと。」
我ながら冴えないスピーチです。悔し涙にくれる息子と仲間たちに対して、『残念だったね』はないだろう。まるで他人の独り言だ。案の定、皆ポカンとしています。
「たばかりながら少しく申し上げますに、畢竟ずるに勝負とは結果と運の鬩ぎあいの事でありまして、運が結果を凌駕すれば即ち勝ち、結果が運を凌駕してしまえば即ち負け、なのでありまして、もとより、実力云々、努力云々などはいずれもこれ、後付けの答え合わせの札合わせ、要するに帳尻合わせに他ならず、勝って良かったね、負けて悪かったね、などという言葉にもおおよそなんの意味もなく駄々残酷なだけで、慰めや施しとは程遠いモノであります。それでもどうしても慰めや施しが欲しいというならばそりゃあもう、骨折箇所を冷やす水のごとくジャブジャブと使えば或いはその場だけ事足りるという事もあるにはありましょうが、根本的には何も変わっておらず、そんな場合は一も二もなく病院に行った方がいいのでありまして……、
斯く偉そうな講釈を垂れております私でありますが、私などはまさにその権化、典型でありまして、生まれて、暮らして、ここでこうしている事のすべてには悉く意味はなく、私の優しさ、冷たさ、いやらしさ、悲しさ、嬉しさ、寂しさなどはバナナの皮のごとく、いざ食らうとならば即座に引っぺがして捨ててしまわなければならず、まあ、じゃあなんであなたはここにいるの? と改めてそうなりますが、これが摩訶不思議! なに、これだって悪口なんかじゃあありません。そうしてあらゆる偶然や奇跡とはまるで門外漢でありなががらそれでいて、それぞれ一人一人の中の偶然や奇跡の中でしか居られない、それが正に、『私』でありまして。
それは例えるならばとある黄昏時、
『あれ? あそこに立ってるの誰だ? 絶対知り合いだよな、こんな時間にあんな所に立っているんだから。誰だよ、何の用だよ、あ、なんだ街路樹か……。』の時の、街路樹になる前の誰かこそが私でありまして、」
意外と短かった2年……、いや、1年と半年。大きな節目を迎えた息子たちはこれまで、いろんな覚悟や考えの元、好む好まざるを得ず、無明な己と、その周りを惑星、もしくは蠅の如く、ぐるぐるブンブンと飛び回る数多出来事一つ一つに対し真摯に、だが有意義に、確固たる確信をもって対峙してきた、無明の地中に屹立する水晶の如きに、心に一偏の曇りもなきエリート集団なわけで……。
困ったな……、場の空気を腐らせるのはもちろん本意じゃない。出来れば綺麗に終わらせたい。そして出来得ればちょっとぐらい拍手も欲しい。もし私が本当に心の底から暖かい人間であれば、がんばったね! よくやった!とでも言えば十分足りるほどの簡単な事なのだろうが、性根も正体も覚束ない私がいくら頭を凝らしても、その境地にたどり着く兆しもまた覚束なく、ひょっとしてもはや、万策尽き果てた状態……。始まってまだ30秒。
蝉しぐれが頗るうるさい。こりゃ外国人観光客も驚くわ。温い風がザっと吹くたびに芝生の上の木陰が揺れて、聞こえないほど遠くの声が一瞬聞こえる。その彼・彼女はここにはいない。バーベキューの煙は鼻にこそばゆく、プールの水の塩素に抗う。つまりこれが夏。これが常識。子供の頃から一切疑わずに見てきたすべてが常識。是も非もない。そして今、これまでじっと見ていたその絵に、実際に触ってみるんだよ。怒られるぞ! でも構うもんか! 何としても何とかこの常識の範疇で私も、なんにも衒わず、本当は、本当に心の奥にある気持ちを自分の好きな形にして、慟哭するがごとくに告白してこの場の全てを終わりにしたい!
だから……、緑君。言うよ。いい?
《続く……。》