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『いきてるきがする。』《第21部・夏》




       第105章『緑君、書くよ、いい?(その3)』

 私には死者に問いかけるような能力もなければそんな趣味もない。

 怖い話はまあ好きっちゃあ好きだけど、それは単純に夏の風物詩として、つまり『ウソ話』として好きなだけで、実際自分の周りを霊魂がウロウロしてて、突然机の上のモノを動かしたり、椅子や花瓶を倒したりしたらゲンナリしてしまうと思う。それは現実にウソが紛れ込んでるというか、ただの偶然を都合よく解釈してるというか。どうにも、人間の感性が絡むとせっかくの事実が全部ウソっぽくなって困る。そして、なんだ全部ウソなんじゃん。嗚呼、無常……すべては夢幻の如くなり……、なんて勝手に虚しくなっちゃったりして。

 当たり前だよ!考えそのものを手前勝手にウソベースに持って行っといて、嗚呼、無常って。そりゃ虚しいに決まってるだろ。それに、

 そんな話を実際に身の回りをウロウロしている霊魂達と一緒にするのはすごく悪趣味だと、私には思えるよ。

 馬と一緒に馬刺しの話をするようなもんだよ。まるで馬が馬である事が欠点みたいじゃないか。もし霊魂霊魂である事を欠点だと言ってしまったら、私らはもう、終わってないか?

                 *       

「マイクがないものでね……。地声で、出来るだけ大きな声でお願いします。」

  え?まだ35秒? ちょっともう、勘弁してくれないかなぁ……。

                 *

「これまで私は毎日、何かを意図的に誤魔化し、諦め続けててきたような気がするんだけど、君はどう? そういう事、ある? あった?」

 私のこのとりとめもない質問を、初めは笑ってごまかそうとした『昔の子』でしたが、そうですね……、と考えだした。

 俺は……、そういうのは、ないですね……。毎日、ですか? 毎日って言ったって、店長の毎日と俺の毎日とは全然違う。『今の子』とも全然違う。昨日とか今日とか明日とかじゃなくて、毎日って結局『今』の事じゃないですか。それだったら俺の毎日っていえば常に、真っ白に乾いた地面と手から滑り落ちた茶碗。それだけなんですよね。ほんと、それしかない。

 私は頷いた。あぁ、それは君が死んだ時の事だね。それは私にとっての、玄関のわきに開いた穴のそばで、片手に靴をぶら下げてぼんやりと立っている自分の姿のようなもんだね。(第一部・参照)

 『今』が一瞬と永遠の両方の特徴を持っている以上、誰かになにかを質問をするのもそれに答えるのも、実はとても難しいんです。それにはお互いの『今』『今』を合わせる必要があるから。でも合わせようにも、誰にもそんなに都合よく自分の『今』を他の誰かに合わせて調整することなんて出来るわけがないし、そもそも『今』を意図的にある一点に特定する事自体不可能に思える。だから我々は、偶然に隣り合わせた『今』『今』をお互いにちょっとずつウソをついては、それを膠に無理矢理にくっつけて共通の『今』を捏造するんです。それが今、あなたが、そして私が見ている『今』なんです。そして我々はもう、その作業に完全に慣れてしまっているのです。

 今、目の前に立つ、健康的に真っ黒に日焼けした、泥塗れの野球のユニフォームを着た逞しい青年息子であり、隣に立って今にも泣きそうな顔をしている中年の女性であると認識した時、はじめて私の『今』であり、ここが市営球場の隣の公園の芝生の上であり、激しいセミの鳴き声の中、野球部を引退する息子へ言葉をかける父親である、事になるのです。

 さ。早く……。

 私はできるだけ静かに、ゆったりと、安心して、そしてウソのない言葉で息子の野球人生が大きな区切りを迎えた事を労いたいし祝いたい。しかしそうしようと思えば思うほど、私の頭の中は様々な『今』混沌となって渦まき、それを弄ぶナニモノかによって正体をわからなくされた私のウソ真実言葉となって浮かんでは消え、浮かんでは消えているのです。

 結局こうか……。私に出来ることといったら、結局これだけか……、私は、はぁ……、と一つ大きなため息をついていつものようにその場を適当にあしらって誤魔化しの言葉を口にしようとした時、

 『そんな要らんのやったら僕にちょうだいよ』という声が、確かに聞こえたのです。

 その声はこれまで聞いたどの声よりも朗かで、素直で、若く美しく、そしてどこか聞き覚えがある声でした。

 いや、別に構へんけど……。こんな、使い道ないような時間でも、いい?

 そう言って差し出した時、私は突然の波濤の中から飛び出したナニモノかに腕をつかまれ濁流へと引っ張り落とされたのです。私の濁流は汚く、そしてとても臭い。

 ほら、言わんこっちゃない!!これだから人間ってのは信じられないんだ! 誰だ? 誰が私を殺そうとした? そうか、これもウソだな? そうだウソに決まってる! お前はウソの中でしか生きられない事を私に信じ込ませようとしてるんだな? でも私は知ってるぞ! 生きるって本当はそうじゃないだろ!わかってるよ!もういまさら、そんなこと言っ立って遅いんだろ!そんな事を考えているうちにも、人間はいつ、死んでしまうかもしれないんだろ!

 流されながら私は、いつか濁流が引いたら自分がいた場所を覗いてみようと思っていた。きっとそこにはもう何もないし、誰もいないし、何も書いてない。そしてその時、私は子供でも大人でも、父親でも息子でも、男でも女でもなく、日本人でもそれ以外の国の人間でもなく、ただ目の前の光景を傍観するナニモノかになっているはずだ。それは神様と同じ。ただただすべてを傍観する、そんなモノ。

40秒経過……。困ったなぁ。 

  急にやれったって、気が遠くなるような話だよ。しかも、1分や、2分で。だから……、

           言うよ、緑君。いい?

                 *

  最初に気ぃ付いたんは、5年生ぐらいの頃やって聞いたけど……。

 兄は慎重にハンドルを切りながら言いました。野球の練習の後、なんか、ちょっとフラフラする。そう言ったかと思うと、彼はその場に倒れ込んだそうです。

 脳腫瘍でな。まあ、手術で一命は取り留めたんやけど、ちょっと体に麻痺が残ってしまってな。

 それでも彼は野球をやめなかったそうです。不自由になった体でこれまで通り、同じユニフォーム、同じグローブで、砂塵を巻き上げ白球を追いかけ、これまで同様に、いやむしろそれ以上に全力で野球をやったそうです。無理だという人もいたかもしれない。嗤うヤツもいたかもしれない。そんな周囲の心配や同情の声だって、彼の耳に入っていたかもしれないと、私は勝手に想像している。でも彼に諦めたような色は微塵も見られなかったそうです。彼は自分の『今』の、その先の先にあるモノまでしっかりと見据えていた。それほどまでに彼の『今』はどこまでも明澄に澄み切っていた。流れはどんどんと激しさを増していく。それでも彼は、その激しい流れの中に凛として立ち、気持ちよさそうに体を晒して笑っているようです。

 僕は何も変わらない。僕には今、僕の目の前にあるすべてがある!

 これも全部ウソ? これまでの私の理屈じゃあそういう事になる。緑君、彼、私妻、息子、そして野球部の仲間たち。みんなが少しずつ出し合って精密に組み上げたこれはむしろ『今』の結晶とも言えるんじゃないだろうか? いや、そんなはずがない。予感はないよ。すべては偶然。そう、それは揺らがない。私たちに何かを理解できるはずがない。理解できないからウソが必要になってくる。そうだろ? ウソしか理解しない我々の魂が、ほとほと呪わしいよ……。

                    *

  でも中2の時、転移が見つかってな、その時は、もう、どうしようもなかったって……。

 享年 14歳。彼は短い一生を終えた。そのわずか14年の間に、彼の『今』は私の『今』に偶然に、ほんの少しだけ触れた。私はただ同級生の息子、そして息子の同級生というだけの彼の生き様に感動し、勝手な想像して夢を見て、彼の事を追いかけ何かをやろうとしているに違いない。彼は今もその同じ『今』の何処かにいる。私の『今』と違い、彼の『今』は明澄で何処までも澄み切っている。だから私は彼を探し出す事は可能だと思っているし、いつかめぐり合うことも可能だと、本気でそう思っている。そしてこの期に及んでは私と同じ、ただの傍観者に過ぎない神に言いたい事など特にはない。ただ一言、私はどうしてもコイツにしなければ気が済まないない質問があった。

                 お前さ……、

 彼の夢を、希望を、頑張りを、可能性を、将来を。 どう説明するんだよ

 

              《続く……。》

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       第104章『緑君、書くよ。いい?(その2)』

  両親の墓参を済ませて実家に向かう車の中で、兄が私に言いました。

「そういえば、緑君って、お前の同級生やっけ?」

「緑君? あぁ、野球部の、うん、知ってるよ。ほんで? 緑君がどうしたん?」

 そう聞きながら私は、まぶしい夏空が少しずつ曇っていくように感じていました。

 小学校の中学年ぐらいから私は自分がいよいよ、家族からも世の中からも歓迎されない、生きるにはどうしても様々な苦労や迷惑を、自分が受けるのではなく周りに撒き散らすような、とても問題が多い厄介な人間である事を、周囲の会話や行動から知るようになっていました。家族でワッと笑いが起きた時、私は大概その輪の外にいて、「え?何?何の話?」と訊くのですが、家族の返答は決まって「お前には関係ない。」か、「お前に話すと長なる。」というモノでした。逆に私が何か楽しかった事を話そうとしても、家族はまるで関心のない様子で目を逸らすか、何か言い間違いや説明に不詳な部分があればまずそれを指摘し、「お前、何言うてるかいっこもわからへんからまとまってから話せ!」と突き放されるのが常でした。きっと家族が楽しい事は私には関係なく、私が楽しい事は家族には関係ないのだろう。この家族で一人だけ、ガラスケースの中にいるような、そしてピンセットで無言のままコオロギを一匹摘まんで日に3回、無表情に差し出され、私はそれを食べている無感情な爬虫類ような感覚を、私はいよいよ払拭しきれなくなっていました。

兄は、

「いや、緑君、お子さんがな……。」そう言うと少し間をあけ、四つ角を用心深く曲がりました。そして、

「こないだ、亡くなったんや。」と言いました。

 私は少し驚きましたが、正直、特に仲のいい友人であったわけでもない緑君の身の上に起きた不幸に、それほど大きな関心を持ったわけではありませんでした。

「え~。そら、なんとも、お気の毒に……。」私はそう返事をしました。

 緑君はクラスでも人気者で、野球部で、笑顔が爽やかで誰からも好かれる好青年でした。野球も上手く、ウソかホントウか、ファンクラブがあったという噂も聞いたことがあります。そんな、私とは全く逆な、世界の日向をまっすぐ歩いているような彼を、私は殊更妬んだりはしませんでしたが、同じ年に同じ町で生まれても、容姿端麗で世の中とうまく嚙み合いさえすれば、こんな田舎でもこんなにも軽やかに生きていられるものかと素直に関心するほど、それほど彼は自分とはかけ離れた素敵な存在でした。そして私はますます、自分に不遇な点があったとしてもそれは自分のみに与えられた特別なモノであり、周りの環境とはまるで無関係である、という理不尽で絶望的な事実を、やはりコオロギの様にただ受け止めるようになっていました。

 

 いえいえ、もちろん違いますよ。今私の息子が野球をやってるのはそんな彼に対する劣等感からではないですよ。私は初め、息子には水泳をやらせようと思っていたんです。カッコいいじゃないですか、水泳体形って。しかし息子は、自分は水泳ではなくこのスポーツがやると野球を見つけてきたのです。だからこれは純粋に息子の意思であり、あるとすればこれはただの偶な接点点であるという事です。

 今となっては、野球は息子の支えであり、息子は私の支えであり、この2つをなくしては、私の住む世界は何一つ存在出来ないようになっているのです。子供が楽しそうに軽やかに、笑って、走って、喋って、唄って、食べて、眠る。こんなのが親にとっては一番望ましい事であり、とにかく健康でいてくれる事が一番の親孝行であるという事は、今の私にはしっかりとはっきりとわかります。

 そういう意味ではやはり、幼少期からひどい喘息持ちで入退院を繰り返していた私は大した親不孝者でした。両親はそんな親不孝者から、少しでも目を逸らす方法を必死に考えたようです。それにはどうやら2つ、方法があったようでした。

 視覚的方法と精神的方法。そしてその作業もそれぞれ2つ

 徹底的に治すか、一切何も関与しないか。

 できれば、この二つを同時の行うのが理想的です。

  そこでまず、両親は私に『楽しいよ』とウソをつき、週2回剣道教室に通うことを勧めたのです。そうすることで、これまでどおり全く手を触れずに、まずは視覚的に、週2回、数時間週末の試合や出稽古の合宿など、年に数日とはいえ、この家族の見栄えを悪くする親不孝者から解放される時間と空間ができたのです。そしてその剣道で肉体も精神も強くなってやがて病気を克服するのではないかという事を期待が出来るならその分、これもまた、これまでどおり、全く手を触れず精神的にも少しは解放されるのです。結果、私の体と精神は両親の期待通り強くなり、小学高学年の頃には喘息の症状は全く出なくなりました。まったく上手い方法を思いついたものだと感心してしまいます。これというのも、これまで頑なにガラスケースの中で育ててきたという事実による裏付けが大きな効力を発揮しているのです。その間、剣道教室で苛烈なイジメにあった私の焼けるような悲しみ、苦しみ、痛みはもちろん、彼らには見えません。それはまるで食肉加工場で鶏が羽毛がすべて毟り取られ捨てられるように、当たり前のようにスムーズに、ゴミとして運び去られてしまうからです。そして空になったガラスケースを眺めて、あぁ、ずっとこんなきれいな時間と空間が続けばいいのに……、という思いに耽ることは、こういった入念なお膳立てを整えてからでないと、親としては鬼畜に等しい所業という風に、世の中全般では見做されてしまうからです。

 まったく、上手い方法を思いついたものです。

 そして私はと言うと、なんと慣れてしまおうとし始めたのです。とうとう自分で自分に見切りをつけた瞬間でした。それではもう、救われません。人間にとって一番つらい事は、自分の悲しみ苦しみ痛みに何の価値もないとされる事なんじゃないかと、この年齢にしてすでに気付き始めていたような追憶がありますが、それに関してはもう判然としません。しかしそうなると、そんな自分を嘲け笑う声はそのうち、自分の内奥からも聞こえるようになり始めました。

 これは、マズイなぁ……、と、さすがにそう思いましたね。

 俺の中で何かが、謀反を起こしてる……。とても危険だなぁ……。

 そう思いながらも私にはなす術もなく、どこか一歩引いた場所から朽ちて行く自分をただただ眺めている、そんな気がしていたのです。

 子供の心はね、皆さん。広いようで狭いんです。何でも受け入れるけど、だからといって何処にも傷が付かないいわけじゃない。

 子供の心はね、皆さん。狭いようで広いんです。何も知らないけど、だからと言って何も理解できないわけじゃない。

 私は夜な夜な、自分の厚かましい心臓の音を聞きながら眠りに就きました。

そしてその間にも、世の中では様々な凶悪犯罪が立て続けに起こります。

  犯人なんか、全部殺してしまえばいいのに……。

 テレビで取り上げられる凶悪犯に、私はそこそこ真っ当な憎悪を抱くようになっていました。ただそれは紛れもなく『近親憎悪』というヤツでした。

自分に対する嫌悪がそのまま他人の方を向いた時、私は自分がとんでもなく残虐非道な人間になる事に気付き慄然としました。それがものすごく怖くて、私はいつしか誰に対しても、本当の気持ちを言わなくなっていました。そしてそのすべての捌け口を音楽に向けた。音楽はまるで掃き溜めの様に寛容に、私の排出する汚物をすべて受け入れてくれました。私は必死に過激な歌詞やメロディーを作っては、それをなるべく自分から遠いところに置いて、自分の狂気をそっちにおびき寄せておいては、その間に、自分はこそこそとその場を退散する。だから私の作る曲はどれも、白々しい変態性と嘘くさい狂気に満ちていたんだと、今ならば簡単にわかるんです。

「なくなった息子さん、●也(私の息子です)と同い年と違うかな?」

その言葉を聞いた私は危うく、子供のころ意地悪だった兄が蘇ったと思うところでした。

              《続く……。》

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    第103章『緑君、書くよ。いい?(その1)』

 去年の予選が終わってから一年。とうとうこの時が来ました。

 かつては路上ライヴハウスで大勢の人の前でギターをかき鳴らしては過激な歌を大声で喚き散らしていた事がまるで嘘のように、私はいつの間にこんなに人前が苦手になったんだろう、なんて、正直自分でも驚いています。

 おそらくこれは永遠の、世界共通の、そして私が、続いて息子が生まれるずっとずっと前からすでに出来上がっていたある大きなストーリーで。なに、誰かの使い古しでも予定調和でも構いません。私はもとより、それに則ってオヤジをこなしてきただけなのですから。

 ただ、その内容・詳細についてはやはり、『今』『今』でしかありえないという大宇宙の大原則に則り、私はこの感動的なシチュエーションに出来るだけ似合うエピソードを、現実とはまた別に考えなければなりません。

「えっと……、今日は本当に残念だったね。うん、負けてなかったよ。負けたんだけどね、実際は。でもうん、よく頑張った。頑張ったんだけど、まあ相手がほんのちょっと強かった、いや運が良かった、だけだね、きっと。」

 我ながら冴えないスピーチです。悔し涙にくれる息子と仲間たちに対して、『残念だったね』はないだろう。まるで他人の独り言だ。案の定、皆ポカンとしています。

「たばかりながら少しく申し上げますに、畢竟ずるに勝負とは結果と運の鬩ぎあいの事でありまして、運が結果を凌駕すれば即ち勝ち、結果が運を凌駕してしまえば即ち負け、なのでありまして、もとより、実力云々、努力云々などはいずれもこれ、後付けの答え合わせの札合わせ、要するに帳尻合わせに他ならず、勝って良かったね、負けて悪かったね、などという言葉にもおおよそなんの意味もなく駄々残酷なだけで、慰め施しとは程遠いモノであります。それでもどうしても慰め施しが欲しいというならばそりゃあもう、骨折箇所を冷やす水のごとくジャブジャブと使えば或いはその場だけ事足りるという事もあるにはありましょうが、根本的には何も変わっておらず、そんな場合は一も二もなく病院に行った方がいいのでありまして……、

 斯く偉そうな講釈を垂れております私でありますが、私などはまさにその権化、典型でありまして、生まれて、暮らして、ここでこうしている事のすべてには悉く意味はなく、私の優しさ、冷たさ、いやらしさ、悲しさ、嬉しさ、寂しさなどはバナナの皮のごとく、いざ食らうとならば即座に引っぺがして捨ててしまわなければならず、まあ、じゃあなんであなたはここにいるの? と改めてそうなりますが、これが摩訶不思議! なに、これだって悪口なんかじゃあありません。そうしてあらゆる偶然や奇跡とはまるで門外漢でありなががらそれでいて、それぞれ一人一人の中の偶然や奇跡の中でしか居られない、それが正に、『私』でありまして。

 それは例えるならばとある黄昏時、

『あれ? あそこに立ってるの誰だ? 絶対知り合いだよな、こんな時間にあんな所に立っているんだから。誰だよ、何の用だよ、あ、なんだ街路樹か……。』の時の、街路樹になる前の誰かこそが私でありまして、」

 意外と短かった2年……、いや、1年と半年。大きな節目を迎えた息子たちはこれまで、いろんな覚悟や考えの元、好む好まざるを得ず、無明な己と、その周りを惑星、もしくは蠅の如く、ぐるぐるブンブンと飛び回る数多出来事一つ一つに対し真摯に、だが有意義に、確固たる確信をもって対峙してきた、無明の地中に屹立する水晶の如きに、心に一偏の曇りもなきエリート集団なわけで……。

 困ったな……、場の空気を腐らせるのはもちろん本意じゃない。出来れば綺麗に終わらせたい。そして出来得ればちょっとぐらい拍手も欲しい。もし私が本当に心の底から暖かい人間であれば、がんばったね! よくやった!とでも言えば十分足りるほどの簡単な事なのだろうが、性根も正体も覚束ない私がいくら頭を凝らしても、その境地にたどり着く兆しもまた覚束なく、ひょっとしてもはや、万策尽き果てた状態……。始まってまだ30秒。

 蝉しぐれが頗るうるさい。こりゃ外国人観光客も驚くわ。温い風がザっと吹くたびに芝生の上の木陰が揺れて、聞こえないほど遠くの声が一瞬聞こえる。その彼・彼女はここにはいない。バーベキューの煙は鼻にこそばゆく、プールの水の塩素に抗う。つまりこれが夏。これが常識。子供の頃から一切疑わずに見てきたすべてが常識。是も非もない。そして今、これまでじっと見ていたその絵に、実際に触ってみるんだよ。怒られるぞ! でも構うもんか! 何としても何とかこの常識の範疇で私も、なんにも衒わず、本当は、本当に心の奥にある気持ちを自分の好きな形にして、慟哭するがごとくに告白してこの場の全てを終わりにしたい!

 だから……、緑君。言うよ。いい?

               《続く……。》

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