『いきてるきがする。』《第6部 秋》


もくじ



第42章

 

  ささ、飲んでください。冷めてしまいますから。

 綺麗な色でしょ? これは『夢紫蘇茶』と言いましてね。うちの田舎にはね、この『夢紫蘇』がそこら中に生えているんですよ。それを摘んで、天日で半日ほど乾かしてから、ゆっくり、色が変わらない程度に低温で蒸して、それから手で揉むんですね。それを煎じて飲むんです。うちの田舎ではみんな好んで飲むんですけどね、そうですか、知りませんか。 

 このお茶はね、安息効果がすごいんです。子供の頃の私は酷い喘息持ちだったんですが、夜中に発作が起きると、母が決まってこのお茶を入れてくれたんですね。飲むと、スッと胸が楽になるんです。私はホッとして見上げるのですが、そこには仁王様みたいに佇立する、スッピンで眉毛がほとんどない母の姿があるんです。母は私から湯呑を毟り取ると、それを流しに投げてそのまま寝るんです。それぐらい眠かったんでしょうね。今思い出しても、奇妙な様な、甘い様な、怖いような、変な体験ですね……。


 窓の外は煙のような雨が降っています。曇ってますが明るいです。オンブバッタが飛ぶ瞬間が見えました。着地すると、今年も秋刀魚が不漁で、白菜が値上がりしてと、秋の話題は次から次にやって来て、そうしてだんだんと秋は深まっていきます。オンブバッタの功績は偉大です。 

 この秋の連休は何だか、コンセントが抜けたように静かですね。風鈴すら、チリとも鳴りません。 

 以前とはだいぶ『今』の様子が変わってきたようです。或いは『今』ありきの『今』を勝手に捏造してしまっているせいかもしれません。自分で勝手に作った『今』『今』というよりも過去と未来の間という感じであたかも空白の様でなんとも味気ないですね本当の『今』を捕らえるのは本当に難しい事ですからね。 

 過去は存在しない、未来も存在しない。 

 そんな風にして少しずつ、まるで柔軟体操で股関節を広げるようにゆっくりと『今』広げていくと、やがて真っ平で一つの大きな『今』になりますよ。いえ、本当に。 

 ハハハハ……。 

 お互い、こんな穏やかな日がずっと続けばいいですね。未来も過去も何も考えずに、ずっとこうしていられたら、そりゃ、誰だっていいですよ。 

  

 2人は最近は居たり居なかったりすね。いつの間にかそうなってしまいました。だから最近は私が一人でこうして店番をするんですよ……。 

 店なんかをやってるとね、どうしてもそこを、世界の縮図の様に考えてしまうんですよね。世界を運転するコクピットのようなモノだと、どうしてもそう考えてしまうところがあるんですね。 

 ここから、自分は世の中にどう打って出るか、という様な風にね、考えを曇らせてしまうんです。別に、生きる事は戦う事ではありませんから、作戦なんか要りませんのに。 

 今だってね、私がこうしてあなたと話しているのは、果たして話しているのか、聞いているのか、なんて思ってるんですよ。会話なのか、独り言なのか。 

 結局、同じなんですよね。その証拠に、最近私は、自分が言った言葉にひどく痛み入る事があるんですよ。有難いなぁ……、ごめんなさい……、と。さっきの母に対する一言だって本当は、有難いなぁ……、ごめんなさい……でしょう。 

 私は一体誰に何を言っているんだろう? 人に良かれと思って言った言葉というのは、実は自分にそう言い聞かせたいだけだったりしますね。つまり、人に良かれと思いたい自分の欲求を満たしたいための独り言。他人はそれに、強制的に付き合わされているだけ。 

だからこれも、さっきの母に対する言葉と同じですね。私が迷惑な子だと思いたいばかりに、母は鬼にされてしまいました。 

 有難いなぁ……、ごめんなさい……。 

 そしてあなたは、そんな不安定で不格好な親子関係を、あなたは無理やり鑑賞させられてしまいました。 

 有難いなぁ……、ごめんなさい……。 

 さて、あなたは私を逮捕しに来たというのは本当ですか?  私には一体、どんな罪状が? 

 ささ、飲んでください。もう冷めてしまいましたか……。 

 この霧雨がもし開けて、私は顔を上げて、あぁ、それでも心のどこかで、私は2人の事を待ってるんだなぁ、やっぱり心細いんだなぁ、と気付きます。そして私の頭は、時間を刳り貫いて、どんどん進んでいきます。『今』にぽっかりと穴を開けてその空洞の中をいくのです。 


  近々、母親のところに行こうと思ってるんですよ。私が救急車で運ばれた時に来てくれて以来、一度も連絡を取ってないんです。取ろうとしても拒否されるんです。母はね、私が死んだと思ってるんですよ。そう思いながらも母はずっと私を探し続けている。信じたくないんですね。母は戦ってます。自分自身の描いた妄想とやはり自分自身が描いた現実のはざまでね。

 同じように、私も近々会いに行こうと思っている。お互いがそうやってお互いの悲しみを共有する、もしくは相殺するんです。 

 でもそのバランスが最近、少し崩れているようなんですね。 

 母が『皇極法師』という男に洗脳されていると、店長のブログを見て知りました。店長が言う『皇極法師』とは誰の事でしょう。店長もそれについては触れていません。私はその人が母と私についてすべてを知っているような気がしてならないんです。 


  半ズボンだと膝頭がもう寒いですね。秋物を出さないと……。

私は、最後にグッと、湯呑を煽りました。その様子を、ジッと見ているのが、 

 そうですよ、お巡りさん。あなたの仰る通りです。 

これはね、『夢紫蘇』じゃありません。そう、あなたが想像するその、元気のいい、野草です。 

 私の生まれた家の近所の空き地にたくさん生えていて、みんなそれを刈って家の軒下に干すんです。乾いた葉っぱが風に触れあう音が綺麗でね。お!だいぶ乾いてきた。なんて祖父の顔がほころぶんです。 

「これはな、喘息にエエお茶やから、ゆっくり飲み」 

 祖父の優しさが染みました。とても飲みやすい温度にしてあるんです。 

 私はね、お巡りさん。法律なんかよりも、祖父の優しさの方が、よっぽど頼りになるし、大切なんです。 

 法律は人間を守りません。人間が法律を守るんです。 

 同じように伝染病も、人間が守るんです。殺人も、戦争も、すべて人間が、懇切丁寧、守り続けているんです。 

 それ以上の愛がどこにありましょうか? 


 刳り貫いた『今』を抜けて自宅に戻ると、まだ朝の5時半じゃないですか! 猫だけが起きて、目をキラキラさせて出迎えてくれました。 

 今日は休みだから、もうひと眠りする事にします。