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第86章『焚火の燃料』
大きめの制服がなんとも可愛いね。この同じズボンが今はもうつんつるてんなんだから、ホントに背が伸びたね。お前は大きくなったって全然変わらない、賢くて可愛いよ。
もし母親というのなら、きっとこういう気持ちを言っただろうな……。写真を火にくべながら俺は独り言ちる。玄関先に吹き集まった街路樹の枯葉を疎ましく思い、木枯しに目も痛くかなりいらだっていた俺はいっそ集めて庭で火を点けてやれと、やってみるとこれが邪悪な程よく燃えた。近所から苦情が来るに違いないが、逆にそれまでのタイムリミットが俺を無邪気に急き立て、過去の写真を全て燃やしてしまうというアイディアを思いつかせた。
勝手な想像し続けるのももう疲れた。だって、想像の世界にはウソも本当もないんだから。これは本当に疲れるぞ。もう辞めたい。でも俺はもう想像の中でしか生きられれない。『今の子』『昔の子』も最近は何処にいるのかわからない。目の前の枯葉だって、きっと俺を騙しているに違いない。俺が枯葉を燃やしているなんてウソ、俺は妙な衝動に駆られ、枯葉を燃やさせられ、そのうちこの炎に飲み込まれて近所の家ごと焼失されてしまう。ただその事を俺は知らないだけだ。俺はきっとそんな判断をしたんだろう。ドバっと更にくべると、火はますます強く燃える。
お前らには関係ないかもしれないが、この写真は俺の大切な思い出なんだぞ。俺が俺として生きてきた、その残酷な証明写真なんだぞ。
自分には子はいない。妻も。家族も。
親はいたけどもう死んだ。それにあれは一つ上のカテゴリーだ。俺を子供と位置づける別の家族。あんなモノ、俺は自分の家族とは認めない。 突然水槽に放り込まれた虫の様に、俺はあの家族に突然放り込まれ、他の家族にはない甲羅や羽根や触覚をじたばたとさせていただけだ。魚たちが悠々と当たり前のように泳いでいるのが見えた。そうだ、そうだよ、これが家庭だよ。家族だよ。そして俺は……。
何より残酷だったのは、その魚の誰一人、俺を食べようともしなかった事だ。その理由は、不味そう。ただその一言に尽きる。
そしてあの夫婦が死んだ時、俺の夢はふと覚めた。
俺はいつも1人ではなかったし、病気の時は病院に連れて行ってもらい、運動会も、修学旅行も、高校も、大学まで行かせてもらった。そのすべてはあの夫婦の計らいだ。あの夫婦のせいではない事は何もない。そんな事、俺だって重々承知している。でも、まさか、煮ても焼いても食えないような虫が、突然茶碗に落ちて来るなんて、気の毒な夫婦だ事。
だから俺は今、その罪滅ぼしに、自分の子供の頃の写真に向かってこんなみっともない事を言っているんだと思う。
人間はね。誰かに可愛がられなければ誰も可愛がれないんだよ。そういうルールなんだよ。システムなんだ。開けっ放した玄関から、飼い猫がこっちを覗いている。おい!こんな寒い日に外に逃げだしたりしたら、きっと後悔するぞ。お前はいつも外ばかり見てニャーニャーと恨み言を吐くが、外だってお前が考えるほどいい場所じゃないかもしれないぜ。それが証拠にこの俺だ。突然放り込まれた家族でも、放り出された瞬間、写真以外のアイデンティティーをすべて見失ったのだから。
*
ある科学者がこんな実験をしたらしい。
人間は、ひとりでに笑うのか。
1人の赤ん坊に対し、接する大人は決して笑顔を見せない。つまり笑顔を教えないのだ。それでも赤ん坊はひとりでに笑うのか。
実験の結果、赤ん坊はひとりでに笑ったらしい。
この実験からわかる事が2つある。1つは、笑顔は習うモノではなく元から備わっていたという事。
そしてもう1つは、神はいない、という事だ。
人間は少しも尊くない、いる価値もない存在だと、この実験が証明してしまったのだ。
笑顔は神の手から離れ、一片のパンと一緒に1人1人に配られた。
「どうも『猿も笑う』って話を聞いた時から、私も怪しいと思ってたんですよ」その話をすると、隣で飲んでいた浅黒い男も賛同してくれた。
この男はのちに行方不明になるのだが、その事をこの時はまだ知らない。そして、
「神様がいりゃそんでよかったのに……。得のないモノを価値のないモノとする、悪い癖ですよね」とも言った。飲んべえが偉そうな事を言う、そう思ったが確かに、この男が自分に得があっても価値のない酒を飲んでいる事は間違いなかった。
満面の笑みを浮かべて母親と思しき若い女に抱かれた俺と思しき赤ん坊の写真が縁から焦げて丸まってやがて浮遊した時、
ちょっと、何やってんのよ! と声がした。振り向くとネコを抱えた妻が立っており、ちょっとやめてよ、近所から苦情が出るじゃない! と窘めた。
思わぬところからまず苦情が出た。近所から苦情が出るという苦情が出たのだ。近所から苦情が出るまでのタイムリミットを迎える前にタイムリミットが来た。私の頭は昏倒し、慌てて火を消した。なんて事をしてしまったんだ!
燃えた写真は1/3ほどで2/3は救われた。神がしっかりと私の思い出を守った、そうに違いない。
私には少しも価値がなくても、偉くなくても、私の思い出には相当な価値がある。それは親の思い出でもあって、家族兄妹の思い出でもある。
赤の他人でない以上、得がないから価値もない、という事はあり得ない。
なに燃やしてたの? と妻に訊かれ、あぁ、枯葉枯葉。と言った時、私はこれまでにない程の大きな感謝の意を街路樹たちに示したことになった。
第84章『最後の最後』
僕がどんなに脅したって、挑発的な口調で罵ってみせたってソイツは、
まあ、そう怒るなよ。だいいち怖いじゃないか。僕は君のそういうところがいいところでもあって悪いところでもあるのはわかるけど、でも私にはとてもとても、君の魅力も欠点もみつけられないよ。そんな頼りのないこんな老人を、君はもう必要としていないだろ?
なんて言われて全く拍子抜け……。
ホントにコイツがあの『皇極法師』なのか??
ホントにコイツがあの、時間と命を牛耳る主なのか??
振り上げた拳を振り下ろす直前に、俺が少し迷ったのは確かです。
*
「まるで精度を欠いた時計の様に、私たちはいつも少し遅れて、毎日おっかなびっくりと過ぎた時間ばかりを相手に生きてしまっています。要らない事だと本当は知りながら、あぁ、遅れた!あぁ、間に合わなかった! なんて、あたかも予期できた未来に抗い切れなかった事を後悔しているかのように考えて、せっかくの『今』をそんなどうでもいい事のために費やしてしまっているのです。もうやめませんか? 私の事も、どうか忘れてください。私はあなたにとってなんの役にも立たないアカの他人です。それでいいんです。僕もあなた同様、そうなりたい。でもこれだけは確かです。
何がどうなって事態がどう転ぼうとも……、
私は最後の最後に、必ずあなたを幸せにします。」
セミナーで観た時のアイツは確かに精悍だった。老人の皮を被った若者だった。発想は鋭く、舌鋒はもっと鋭く、眼差しはさらに鋭かった。
「でも焼き鳥屋でバイトなんかしてたって、夢も家族も財産も持てませんよ先生!」
私のこの発言で会場全体が静まり返りました。そこにいた恐らく数百人の聴衆と、ネット越しの、おそらくは何万・何十万の視聴者も、ジッとして動けなくなったった事でしょう。
私が今こうして英雄でいられるは、たったこの一言のおかげなのです。老人はそっとマイクを構えて言いました。
あなたは、あなたの人種を、そして今喋っている言葉を、どうして学びましたか? あなたはそもそも、そんな自分のアイデンティティーに満足してますか? そして今その言葉を喋っているのは、その言葉で考えているのは、本当にあなたですか? あなたが世の中に対して抱いている不満や不安はとりもなおさず、そんな不満足で不安定な自分に対してのモノじゃないのですか?って、誰かもあなたとまったく同じように考えていると考えた事はありますか?
もちろんすぐに拍手が起きましたよ。割れんばかりの。会場の壁も床も、グラグラ揺らすほどの拍手が。数百人対1人。でも私は全然負けていません。私は知っていたのです。私1人に、この冗談のように高価格な羽毛布団のセットを買わせるため、ただそれだけのために、この目の前の男は、数十万人を動かしているのだと。これが商売のためであるはずがありません。だからこの目の前の男はハッキリと、私を殺そうとしていたのです。
しかしそうなると私だって面白くないわけがない。これで私が見事、この超高級羽毛布団セットを購入すると、果たしてどういう結果を引き起こす事になるのか。私はわかっています。郊外なら中古の一戸建てが楽に買えるほどのこの超高級羽毛布団セットにそれに見合うだけの寝心地が、
6畳1K、西武池袋線練馬駅から徒歩45分の、私の他は不法滞在の外国人で、毎晩2時3時まで訳の分からない言葉の歌で埋め尽くされてろくに眠れない、警察に通報してやること数十回、アパートの前で襲われる事数回、その仕返しに奴ら全員の部屋のドアノブを破壊して入れなくしてやったら、更にその仕返しに原付を燃やされた、そんな無法地帯の安アパートで得られるはずがありません。私はついでに、その不満まで、この超高級羽毛布団セットにぶつけてやろうと本気で、強盗してでも金を工面してこれを買おうとしていたのです。
だってお前、万能なんだろ? やれよ、やってみろよ。
だから私は全くひるみませんでした。寧ろ会場のあちこちで私を振り向く数百人のさくらの白い顔が、まるでチラチラと蛍の様に綺麗だとさえ感じられたぐらいです。
一対一でやりましょうや!先生!
私はさらにそう言いましたが、それには笑いが起きました。
お前が? 同じ舞台で、先生と? 演説合戦??
このバカな輩は『サルカニ合戦』という話を知らないのか?
お前は、サルだ。先生は、カニだ。お前は先生には永遠に勝てない。
もう絵本は閉じましょうや! 先生!
*
と、お前はその時そう言ったんだな? 私が自分が釈放されるのはもう始めからわかっていましたから、警察の取り調べで何を訊かれてもただ素直に頷けばよかったのです。果たして私は釈放されました。
『日本統治時代は良かったと言った老人が殴り殺される』
『愛国の烈士』として賛美する声も。そんな記事も出ていましたが違う違う!そんな理由じゃない!僕はそんな理由で人は殺さない!
私は社会に追い詰められ、その弱みに付け込まれ騙されて、高額な羽毛布団セットを買わされた可哀想な若者として、世の中からな絶大な支持と同情を集めたのです。そうなるともう法律などなんの力もありません。
そしてそのおかげで、私はある会社に就職することが出来ました。借金はその会社の社長が肩代わりしてくれたのです。羽毛布団はまだ使ってますよ。調べたら、いいとこ一万円程度の布団らしいです。でも寝心地は悪くないですよ。
ただ一つ、私が気になっていたのはあの男が言った一言。
何がどうなって事態がどう転ぼうとも……、
私は最後の最後に、必ずあなたを幸せにします。
さすが『皇極法師』。あ、方々いろいろ、
ちょっとずつ記憶を借りました。
じゃあお先に失礼します。