
第75章『あるスゴイ人の言い分。』
行きつけのバーで隣に座っている人が有名人だと気付いた私は、酔いの勢いも手伝って声を掛けたのです。
あの……、
はい?
皇極法師さん?
あ、はい……。
彼はそう言うとすぐに私から目を逸らしました。
いや、こんな形で実際にお会いできるなんて。光栄というか、迷惑というか……。
私は彼の表情を伺いながら言いました。彼はどんな人物なんだろう。そしてどんなタイミングでどう、私に応じるのだろう。
これまでも、皇極法師について私は、憶測も含めて色々お話してまいりました。でも私が実際に彼と会うのはこの時が初めてだったのです。何百年、何千年、何万年、いや、もっと……。人間の上に糊塗された厚い妄念を、これほど潔く、そして合理にも非合理にも一切抗わずさばいてみせた人はこの人をおいて他にはいないでしょう。私の店で働いている『今の子』の母親を名乗る女性からその名前を聞いた時も、私は彼女が、誰にも抗いようもない程の影響力と、その力を誰にもわからないような方法で行使する力を持ったナニモノかに従っている、ただそれだけで、実際の彼女はここにすらおらず、悲しんでも苦しんでも、喜んでも楽しんでもいないという、それはその時とまったく同じ印象を持ったのです。
あなたが、いろんな人を助け、また迷惑をかけているのは私も知っています。あなたは知恵を授けて、助けているつもりなんでしょうね? でもあなたはそうやって、いろんな人の、生きる上でアキレス腱の様に大切な様々な問題を……、そうですね……、私には解決しているというよりも有耶無耶にしている、治療しているというよりも全摘出している、そう見えてしょうがないのですが……。
このタイミングで皇極法師はまだ何も言いません。ただ何やら強そうなお酒の入ったグラスを手に持ったまま、小さく揺れているだけです。
人ってすぐに指を差すじゃないですか。コイツ、悪人!ってね。でもそれって、まるで大きなモノを無理矢理小さな結論に押し込めているだけで、全然的を射たモノじゃない、そうですよね?
その時初めて彼は少し私を見て、はい……と言いました。私は芸能人から返事をもらったようで、少し気分が良かったのです。そして続けました。
でも悪人は畢竟綿飴の様で、実にふんわりとしていて、大きく見えていても近づいてみれば、実態も曖昧で、その指差した先をずーっと手繰ってみればその悪人をすり抜けてまるで関係のないところを指差していた。それはまさに、誤解の特徴そのものだと気付いたのです。
悪があるなら、善も出せ!
ニセがあるなら、ホンマも出せ!
*
健全に生まれたにも関わらず、実の両親や親せきや兄弟から苛烈な虐待を受けて、誰にも心も開けず、誰とも話も出来ず、文字も読めず、ただ犯罪を繰り返した挙句人を殺めて、その事についてほんの少しの反省も出来ずに、最後は法に裁かれて死んだ人がいました。そんな彼の長くない人生のほんの少しの時間を、私は工場のライン作業のベルトコンベアの向かい合わせで過ごしたんです。彼は話し掛けても反応がなく、他の作業員から、「あの人、耳が聞こえないから、身振り手振りで話して」そう言われたのです。
作業はパソコンの入った箱に『Pバンド』と呼ばれる帯状の紐をぐるっと巻き付けて圧着するという単純なモノでした。
ちょっと箱が曲がってるから、左に! とか、
箱がこっちにより過ぎてるから押しますよ! とか。
実際、うるさい工場内では話をするよりも身振り手振りの方が効率もいいんです。耳の聞こえない彼の身振り手振りはさすがにこなれていて、私は毎日、なるほど、なるほど、と彼のゼスチャーの妙に感心させられていたのです。
しかしほどなく、彼は工場をやめました。
その日もいつも通り、8時半から作業を始めて、1時間ほど経った頃でしょうか、突然彼がベルトコンベアを乗り越えて私の方に来たんです。あっという間に私はPバンドの内側に倒されて機械で縛られてしまったのです。そんな事が起きていても、工場って案外、誰も気づかないんですね。私はその後、彼に背中を何カ所も、刺されました。声も出ず、だたベルトコンベアは次の工程までリニアなスピードで私を縛り付けたまま流れていくんです。やがて血まみれの私が流れてきた事に気付いた女子作業員がベルトコンベアは緊急停止させたのです。彼はその時もういませんでした。
その間の恐らく数秒で、彼は私に、先に話した、彼が育った境遇を私に話して聞かせてくれたのです。
あなた様がいてもいなくても、私には何の影響も意味もない。
だからせめてあなた様にとって、私が有意義な存在でありますように……。
さようなら、あなた様。
うんうん、と、私は2回ほど頷いた気がします。走り去る彼の、人間らしく躍動する姿を見届けたのは、恐らく私1人だったでしょぅ。
なぜ、彼にあんな運命を与えたのです? そしてなぜ、彼にあんな知恵を授けたのですか?
皇極法師は何も言いません。
もしあの時死んでいたら、私は妻にも子供にも会えなかった。それを避けるために、あなたは彼を利用して、殺しそこなう風にあの知恵を授けたとでもいうのですか?そうして彼に確固とした道を与えて、最後は平等な法の下に導きだして、そこですべての彼の行動の結果を1つ、まるで褒美の様に与えてもらえるよう仕向けたというのですか?
いいえ、全然、ぜ~~んぜん!
急に大きく反り返った彼は笑いを含めて言いました。
だいいち、私はその場所にいなかったし、そんな話は初めて聞いた。私のせいだと、あなたは怒っている。助かったくせに。その事から多くを学んだくせに。ことはすべて忘れて、死んでもいないくせに死にかかった!とただその事だけで私の判断ミスを指摘している大きな誤解過ち勘違い!
私はとにかく、誰のためでもない判断をする事を常に義務付けられている。これがどれほど難しいか。わかりますか? 平等かどうかを、誰かの目線で判断する事はすべて大きな誤解過ち勘違い!
私は今も、冬寒くなるとその時の傷が疼くのですが、そのたびにあのバーの場所を思い出そうとするのですが、全く思い出せません。