『いきてるきがする。』《第25部・夏》




 

 明け方、私は夢を見ていたんです。鄙びた古旅館の小窓に向かって、私は頻りに呼び掛けている。

すみません。予約した〇〇です。

 そういいながらも、私はこんな鄙びた旅館にいったい何の目的で誰と泊まろうとしてるのかを思い出そうとしてるのですが、一向に何も思い出しません。でも確かに、私は誰かと泊まろうとしています。私の眦には、私と泊まるもう1人の姿がちらちらと見えているからです。

 しばらくすると受付の奥から小さな男の子が現れて、どちら様ですか?と言いました。私は自分の名前と住所を書いたメモをその男の子に渡します。男の子は、しばらくお待ちください。と言ってメモを持って奥に入っていきました。その時点で私は、あ、これは夢だ。と気付いたのです。これは私の夢でよくあるシチュエーションだからです。そしてこの夢のモデルになったと思しき実際の経験も同時に思い出されました。

              *

 20代前半の頃、私はある女性と付き合っていました。女性は既婚者で、いわゆる不倫の関係でした。神楽坂で食事を済ませた後、今日は主人の帰りがいつもより早いから、というその人と飯田橋駅に向かって歩いている時、ふと目をやった総武線の線路端の桜が電車が通るたびにひらひらと散るのを見て、私はどうしてもその人とボートに乗りたくなったのです。ささやかな抵抗だったのかもしれません。私が一緒にボートに乗りたいというと、女性は黙ってついてきてくれました。2人で駅前のボート乗り場へと降りて行くと、受付には小さな女の子が1人でいました。女の子は我々を見て、何の用ですか? と言いました。私はちょっとあっけにとられて、えっと……、ここ、ボート乗り場だよね?ボートに乗りたいんだけど。と言うと女の子は無言のまま手続きをしてくれました。

 ライトアップされた桜の下を、私と女性はゆっくりと進みます。目の前の彼女の顔は、桜の枝とその影と、水面に反射する街の明かりのせいでゆらゆらとして、少し不気味でした。不気味なぐらい美しかったと言った方が思い出に対してはより真摯なのかもしれません。彼女は終始無言でしたが、今思うと少し迷惑そうでもありました。

              *

 受付を済ませたその人と私は、あの温泉宿特有のビニール製に金文字のスリッパをはいてペタペタと廊下を歩いています。案内はいません。でももう夢だと気付いているのでさしたる違和感も罪悪感もないのです。そして次の瞬間には我々はもう、狭い部屋で布団を並べて寝ていました。その間の出来事はすべて端折られたようです。眠いし、寝たいのですが、部屋はやけに蒸し暑く、汗がベタベタと気持ちが悪く、女性も寝苦しいのか、女性とも思えない豪快な鼾をかいては頻りに寝返りを打っています。私はその頭を一つ撫でました。柔らかくツルツルとした髪の手触りは明らかに妻ではありません。その人です。

 もうわかっています、私はもう完全に目を覚ましているんです。ただ、あえて夢にとどまろうとして無理矢理目をつぶっているのです。目を開ければ、実際に隣に寝ているのは私よりもデカい息子です。鼾をかいているのもおそらく息子です。妻はそのさらに隣で胎児の姿勢で小さくなって寝ています。そしてその枕元には、そのすべてをじっと観察するように茶白の猫がいる。それはもう確認しなくてもわかっている事です。

 でも、まあ、もういいかな……。これ以上見ていても楽しそうな夢じゃない。そう思って私はゆっくりと目を開けました。時間は午前3時過ぎぐらいでしょうか。喉が渇いているのに気づいて、キッチンに水を飲みに行こうとしたのです。薄暗い部屋に少しずつ目が慣れるにつれて、夢と現実がゆっくりと分離されていくのを感じました。

 しかし、いざ起き上がろうとしたその時、私は何か柔らかいモノがそれを遮るのを感じたのです。あれ、猫かな……。そう思ったんですが、それはやがて私の両足首をゆっくりと掴んだのです。見るとそこにはまだ夢から消え残った長い髪と白い指があり、髪は俯いたまま「どうする?」と呟いたのです。私の頭には2つの「どうする?」が浮かびました。1つは、夢だからとまったく違和感も罪悪感がなかった事に対して、この事態をどう解釈する?という意味の どうする? と、もう1つは、夢と現の境目の、どちらを本当として選択する? の2つの、どうする? です。どちらにせよ、すでに目をはっきりと開けて周りを見ているのですから、このあとの選択はいずれ時間の問題です。私は再びしゃがんで、

 どう、したかった?

 と、逆にその髪に向かって問いかけました。髪は俯いたままゆっくりと頭を持ちあげて私と対峙するような形になりました。

どうすれば、よかった?

 髪は何も言いません。ただ、しょんぼりとして座っています。

 見ての通り、僕は今は、家族にも恵まれてとても幸せだよ。でも、いろいろあった。仕事も転々とした。体も壊したし大きな病気もした。ある事情で外国にもしばらく住んだし、交通事故で死にそうになったこともある。心を病んで生きるのをやめてしまおうと思ったこともある。でも結局はあの時と同じだよ。ボートに乗ったあの時。安い給料もらって、法外な夢ばかりを見て、いろいろやったつもりだけど結局どれもうまくいかなかった。だからなにもないままだ。きっと、僕には生きる才能がないんだよ。

 髪は膝の上に手を重ねて、ただ俯いたまま座っている。

 僕はね、もしあの時あのままボートに乗り続けたら今頃どうなってたんだろう、なんて考えないんだよ。自分で選んだわけじゃない。自分で選んだ事なんて何もない、なにもかも与えられたものだけで生きてる。そう思ってる。君はそうじゃないのかい?君は自分で決心した事を後悔しているのかい?

 でもそれは違う。君も僕と一緒だ。何も決心なんかしていないよ。そしてきっと今もあのボートに乗ったままなんだよ。それなのに君は、主人に知れたらどうしよう……。離婚する事になったらどうしよう……。と心配しながら、僕の強引な態度を少し迷惑に思いながら、満開の桜の下をゆっくりと進んでいるんだよ。それだけ。気付かなかった? あの時、僕は一切ボートを漕いでないんだよ。あれはボートが勝手に流れてたんだよ。はた目には若い男女が桜の下でボートに乗ってる。ただそれだけの絵さ。他には何の意味もない。そこに君は、不倫という不自然な凸凹を、さも自分のせいみたいに背負いこんで悩んでいた。でもそれだって本当は不自然でも何でもない。

 その時、茶白の猫が髪の膝の上に飛び乗ったのです。髪は少し驚いたようなそぶりをした後、耳や口元を頻りに擦り付けてくる猫の頭を白い手でそっと撫でたのです。

 気に入られたみたいだね。でもさすがに、この子にすべて決めさせるのは可哀想だよ。ちょっとかして。私は髪の膝から茶白の猫をそっと抱き上げました。君が幽霊になるか現実になるか、僕は知らない。きっと誰かがそれを決めるんだろう。それとも、自分で決めちゃっていいのかな? ひょっとしてさ、幽霊って、唯一自分で決めてもいいモノなのかもしれない。目の前にあるものを、本当か、ウソか。でも少なくともこの子にとって、君は幽霊じゃないみたいだよ。

 髪は少し笑った、そんな風に感じた。そして顔を上げた、そんな風に見えた。ただその顔に見覚えがあったかどうか、私は知らない。

 そして突然鳴ったアラームと同時に、君は消えた。

 茶白の猫は私の手を振りほどいて、ケージに駆け寄り早朝ご飯を催促している。4時のアラームにはそういう意味もある。

 もう、4時か……。夏もやや翳りが見え始めた朝の4時は、しっとりとして薄暗くて、なにかどこかが健康的です。

 この夢、20代ならば、夢精案件だ。

 まったく恥ずかしい限りです。夢精してもしなくても、どちらにしろ恥ずかしい限りです。

 ただ私は、夢と対等に会話できた事を満足しています。そしてこれからも、夢の中にいる私にたびたび声を掛けては、素敵な幽霊たちと素敵な会話できたらいいなぁ、と思っているわけです。

                 《終わり》

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 私が幽霊の類を全然怖くはないのは、それを少し信じているという面があるから。

もう少しわかりやすく例えるならばそれは四季それぞれに対する思い込みのようなモノ。

 春は桜や菜の花、夏は花火や蛍、秋は松茸や楓、冬は門松やクリスマスツリーのような、あって当然な思い込みってありますよね。それをまるでたまたまみつけた汚らしい人形のようにそっと拾ってはそれぞれの季節に合わせて綺麗に飾り、奉ってはお姫様扱いをしておいて、やがて季節が過ぎるとまた無下に捨てる。そんなことを繰り返して、なにかに祟られやしないか……。もしも祟られたらどうしよう……。祟られたくない……。と、そこまでも楽しもうとする、それは自分の判断や行動に一切の意味や価値を認めない、貪欲な自分に対する猜疑心があるから。

 そしてこれはホントに可笑しな事なんですが、

 幽霊を信じてない人の方が余計に怖がる傾向が、これは本当にあるんです。面白い矛盾ですよね。信じてないのに怖いって。

 もちろん、正体のわからないモノが怖いというのは道理ですよ。幽霊に対する恐怖はどこから来るのかというととどのつまり、絶対にあるはずもないモノが万に一つも自分の目に見えてしまったら、耳に聞こえてしまったらどうしよう、という自分に対する猜疑心から来るのです。それが貪欲であればあるほど幽霊はより色鮮やかに面白くなる。自信満々の人が常に何かに身構えている様にみえるのは、自分に対する猜疑心を否定しようとして力んでいるからじゃないでしょうか。そのために可能性を狭め、すべてに窮屈そうにしているからじゃないでしょうか。確信を持つという事は同時に、自分に対する猜疑心を否定する事だともいえますからね。

 ただその自分に対する猜疑心というヤツがなかなかなまなか、意のままではありません。それは自由闊達な感情を囲う柵の外側にある、どんよりとした木下闇のような場所で、普段はじっと寝たフリをしているのです。そして突然、むっくりと起き上がったかと思うと、西洋渡来・東洋渡来の様々な伝染病に冒された野良羊のような感情の群れを率いては、それまでそこで大人しく草を食んでいた生まれながらの純粋な感情の群れと、こっそり交配させて、あわよくばどさくさに紛れて掻っ攫っていこうとするのです。これは大変非道な事ですが、みると生まれながらの純粋な感情にも、その寝ぼけた羊飼いにも、さして抵抗する様子は見当たらないのです。むしろ受け入れているようでもあるのです。なぜなら、生まれながら感情は、自分には基より何の魅力も才能も可能性もない事をよく知っているからです。そしてその寝ぼけた羊飼いも「あぁ、羊の数が増えたなら増えたで、まあそれはそれでよかったよかった。」とまた眠ってしまいます。

 この寝ぼけた羊飼いの事を仮に『赤ちゃん』としましょうか。そうして赤ちゃんがスヤスヤと眠っている間にも、厄介な病気をうつされた生まれながらの感情は悪寒と熱に苦しみながらもその『信仰』という喉のムズムズをそのまま放置してしまうのです。

 ここで、『信仰』と言う言葉が出てきましたが、ここでいう『信仰』とは一般に言われているような、大袈裟なばかりで根拠に乏しい非科学的なエピソードを自信満々におっぴろげた絵画や物語を盲信者に描かせたり書かせたりして悦に入っている凶悪凡人に対する隷属の事を言うのではなく、自分の身を守ろうとする、それは本能に基づく純粋で神聖な、自分の在りように対しての自浄行為と言えます。

 人は変わらなければいけない。人は知らなければいけない。そして、人は気付かなければいけない。まあなんという、目を覆いたくなるほどの悪魔的で醜い執着なんでしょうか。しかし赤ちゃんはそれが生きる上で免れ得ない絶対条件であることを、いずれ様々な形で知らされる事になります。生きる上で、もはや自分で自分を救う術はない、そう気付いた赤ちゃんはまずは自分をあえて小さく、みすぼらしく、無垢で無知で無力にくくる事で、本当はない不思議があってもいいような、本当はない矛盾があってもいいような、そんな条件を作り出すべく前を向こうとするのです。そしてまずはすべてからその『根拠』という毒素を奪い取ります。まずはそれで十分です。そうすることで、赤ちゃんはギリギリのところで魂の腐敗を防ごうとしているのではないかと、私は推測しています。だた、前というのは前として常に厳然と示されてあるわけはないので、泥水を飲んで育った赤ちゃんは泥臭く、酒飲んで育った赤ちゃんは酒臭く成長するのです。これを文化・宗教・民族・国家と呼びたいなら、呼んでもいいと思います。

 じゃあもし、仮にこの矛盾を合理的に解消する方法があるとしたらそれはどんな方法でしょう。まあ単純に幽霊がまったく頭から消えてなくなればいいんですが、脳の構造上それは無理っぽい。では見えてもそれを逐一証明してくれる呆れるほど明解で単純な理屈が毎度毎度都合よく頭に浮かべばいいんですが、それもなかなか難しい……。

 

 つまり、あっても無理、という能力の限界を察する事。幽霊を信じない人にとっての幽霊とは、はっきり目の前にあるモノを正しくあると証明しようとする的を射た実験の結果の事ではなく、そこにそれがあってもらっては都合が悪い、立場がないという、状況を完全に無視して一つの雛型に無理矢理に嵌め込んだ事によって表面に生じた不自然な凸凹の事なのです。

私が幽霊を見たのはつい昨日です。昨日の夜。(続く)

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